李顿调查团档案文献集(套装共19册)
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第三章 日支两国間の满州に关する诸問題

1.支那に於ける日本の利益

1931年9月に至る四半世纪間に於いて满州と支那の他の部分との结合は追々強固となりつつあり夫れと同時に满州における日本の利益は増加しつつありたり。满州は明らかに支那の一部たりしも同地方に於いて日本は支那の主权行使を制限するが如き特殊の权利を獲得若しくは主張し两国間の衝突は其の当然の帰结なりき。

一九〇五年の条约に依る日本の权利

1905年12月の北京条约に依り支那は従来ロシアの租借し居たる关東州租借地及ロシアの管理し居たる東支铁道南部线中長春以南の铁道の日本への让渡を承认し尚追加協定に依り支那は安東奉天間の軍用铁道を改良し之を十五ヵ年間经营する权利を日本へ让与したり。

一九〇六年八月南满州铁道株式会社创立せらる

1906年8月、勅令に依り従前のロシア铁道を安奉铁道と共に引受け且管理する為南满州铁道会社设立せられたるが、日本政府は铁道、其の付属財産并びに撫順及烟台の価値ある炭鉱を提供する代償として同会社の株式の半額を其の有とし同会社を统制する地位を得たり。同会社は铁道地帯に於ける行政を委任せられ徴税を许され且鉱业、電気事业、倉庫业其の他の诸事业经营の权限を与えられたり。

朝鮮の併合

1910年、日本は朝鮮を併合したるか是に依り朝鮮人移住民は日本国民となり日本官吏は之等鮮人に对し法权を行使することとなりたる為、满州に於ける日本の权利は間接に増大したり。

一九一五年の条约及交换公文

1915年一般に二十一ヶ条要求として知らるる日本の异常なる要求の结果、同年5月25日、日支两国間に南满州及東部蒙古に关する条约の调印及公文の交换行われたり。右協定に依り旅順及大連を含む关東州の元来二十五ヵ年間に租借期限、并びに南满州及安奉两铁道に关する期限は総て九十九ヵ年に延長せられ、日本臣民は南满州において旅行及居住し、各種の营业に従事し、且商业、工业及農业の為め土地を商租する权利を得、尚日本は南满州及東部內蒙古における铁道及其の他或種借款に对する優先权并びに南满州における顾問任命に关する優先权を獲得したり。然れども1921—22年のワシントン会议において日本は右诸权利の中借款及顾問に关する权利を放弃したり。

上记各条约中及其の他の诸協定は满州において重要にして且特殊なる地位を日本に与えたり。即ち日本は关東州租借地を事实上完全なる主权を以て统治し、南满州铁道会社を通じて铁道付属地の施政に当れるが、右铁道付属地は数箇の都市并びに奉天及長春の如き人口大なる都会の广大なる部分を含み、此等地域において日本は警察徴税、教育及公共事业を管理したり。又日本は租借地に关東軍を置き、铁道地帯に铁道守备队を駐屯せしめ、各地方に领事館警察官を配する等满州诸地方に武装部队を存置し来れり。

满州に於ける日支两国間の政治、经济及法律关係の特殊性

上记满州において日本の有する数多の权利の概说に依り满州における日支两国の政治、经济及法律关係の特殊性は明瞭にして、此の如き事態は恐らく世界の何処にも其の例なかるべく、又隣邦人の领土內に此の如き广汎なる经济上及行政上の特权を有する国は他に比类を身ざるべし。若し此の如き事態にして双方が自由に希望し又は受诺し、且经济的及政治的领域に於ける緊密なる協力に关する熟策の表現及具体化なりとせば、不断の紛争を醸すことなく之を持し得べきも、斯かる条件を欠くにおいては右は軋轢及衝突を惹起するのみ。

2.满州に於ける日支两国間の根本的利害关係の衝突

满州に对する支那の態度

支那人は满州を以て支那の構成部分と見做し同地方を支那の他の部分より分離せしめんとする一切の企てに对して憤慨す。従来東三省は常に支那及诸列国が共に支那の一部と认むる所にして、同地方に於ける支那政府の法律上の权限に付异议の称えられたることなし。右は多数の日支間诸条约及協定并びに他の诸国際条约により明らかなる所にして又日本を含む诸国の外務省より正式に公表せられたる多数「ステートメント」に缲返えされ居る所なり。

日支国防の第一线としての满州

支那人は满州を以て其の「国防の第一线」と考え居れり。支那の领土として满州は之と接壤する日本及ロシアの勢力が之等の地域より支那の他の地方に侵入するを防ぐ為の前哨とせられ居れり。北京を含む長城以南の支那へ满州より侵入することの容易なるは歷史上の经験に依り支那人の熟知する所なるが、右東北よりの外国の侵略を虜るる念は铁道の发達に依り近年一层増大し且前年の事件中一层激化せられたり。

满州に於ける支那の经济的利益

支那人は又经济的理由によるも满州の彼等の為に重要なるを认むるものにして、数十年来彼等は满州を「支那の穀倉」と呼び更に近年に至りては之を近隣诸省の支那農民及労働者の季節的勤労地と认むるに至れり。

支那は全体として人口过剰なりと谓い得べきやは疑問なるも、或地方又は或省例えば山東省の如きが住民を他地方に移出する要ある程度に人口过剰なることは此の問題に关する权威者の一般に认むる所なり(付属書第三号の特别研究参照)。従って支那人は满州を以て現在及び将来に於ける支那の他地方の人口問題を缓和し得る辺境地方と认め居れり。

支那人は满州の经济的開发が主として日本人の力に依るとの主張を否定し、其论駁の根拠として特に1925年以降に於ける支那人の植民事业、彼等の铁道建设及其の他の事业を挙げ居れり。

满州に於ける日本の利益、日露战争より生せる感情

满州における日本の利益は诸外国の夫れと其の性質及程度に於いて全く异なるものあり。1904—5年、奉天及遼陽南满州铁道沿线、鴨绿江、并びに遼東半島等、满州の野に於いて战はれたる日本のロシアに对する大战争の记憶は総ての日本人の脳裏に深く印せらるる所なる。日本人にとりては对露战争はロシアの侵略の脅威に对する自衛の為生死を賭したる战として永久に记憶せらるべく此の一战に十万の将士を失い且二十億円の国費を消費したる事实は日本人をして此の牺牲を决して無益に终らしめざらんことを决心せしめたり。

然れども满州における日本の利益は其の源泉を日露战役より十年以前に发す。1894—5年の主として朝鮮問題に关する日清战争は大部分旅順及满州の野に於いて战われたるか、下关に於いて调印せられたる讲和条约に依り遼東半島は完全に日本に割让せられたり。日本人にとりてはロシア、フランス及ドイツが此の獲得したる领土の放弃を強制したる事实は日本が战勝の结果满州の此の部分を獲得し之に依りて日本は同地方に对する道徳的权利を得、其权利は今尚存するものなりとの確信に何等の变更を及ぼすものに非ず。

满州に於ける日本の战略上の利益

满州はしばしば日本の「生命线」なりと称せられ、满州は現在日本の领土たる朝鮮に境を接す。支那四億の民衆が一度统一せられ強力となり且日本に敵意を有し满州及東部アジアに幡距するの日を想像することは多数日本人の平静を撹乱するものなり。然れども彼らが国家的生存の脅威及自衛の必要を语る時多くの場合彼等の意中に存するのは寧ろロシアにして支那に非ず。従って满州における日本の利益中根本的なるものは同地方の战略的重要性なり。

日本人中には日本はソ連邦よりの攻撃の場合に备える為满州に於いて堅き防禦线を築く要ありと考え居るものあり。彼等は朝鮮人の不平分子が隣接せる沿海州のロシア共産主義者と連携して将来北方よりの軍事的侵入を诱致し、又はこれと協力することあるべきを常に惧れ居れり。彼等は满州を以てソ連邦及支那の他の部分に对する缓衝地帯と认め居れり。殊に日本の陸軍軍人はロシア及支那との協定に依り、南满州铁道沿线に数千の守备兵を駐屯せしむる权利を得たるは日露战争に於ける日本の莫大なる牺牲に对する代償としては尠(スクナ)きに失し、同方面よりの攻撃の可能性に对する安全保障としては貧弱に过ぐると考え居れり。

满州に於ける日本の「特殊地位」

愛国心、国防の绝对的必要及特殊なる条约上の权利等の総てが合体して满州に於ける「特殊地位」の要求を形成し居れり。乍併日本人の懐く特殊地位の观念は支那又は他の诸国との間の条约及協定中に法律的に規定せられ居る所に局限せられ居るものに非ず。日露战役の遺産たる感情及歷史的聯想并に最近四半世纪間に於ける在满州日本企业の成果に对する誇は「特殊地位」の要求の現实なる—捕捉し难きも—一部分を爲すものなり。從て特殊地位なる语を日本政府が外交用语として使用する時其の意味は不明瞭にして、他の诸国が国際文書により之を认むることは不可能に非ずとするも困难なると蓋し当然なり。

日本政府は日露战争以来随時ロシア、フランス、英国及米国より满州における日本の「特殊地位」、「特殊勢力及利益」又は「最高の利益」の承认を得んことを试みたるが、其の努力は単に部分的に成功したるに止まり斯かる要求が稍々明確に认められたる場合にも右承认を含む国際協定及了解の多くは時の经过と共に正式なる廃弃又は其他の方法に依り消滅するに至れり。旧ロシア帝政政府と结ばれたる1907年、1910年、1912年及1916年の日露秘密協约、日英同盟協约、1917年の石井·ランシング協定は其の例なり。

ワシントン会议に於ける1922年2月6日の九国条约の调印国(米、白、英、支、佛、伊、日、兰、葡の九ヶ国)は、「支那に於いて一切の国民の商业及工业に对する機会均等」を维持する為、支那の「主权、独立并びに其の领土的及行政的保全を尊重すること」を约定することに依り、支那に於いて「特别の权利又は特权を求むる為」支那に於ける情勢を利用することを差控えることに依り、また「支那自ら有力且安固なる政府を確立维持する為、最も完全にして且最障害なき機会」を之に供与することに依り、满州を含む支那の各地方に於ける调印国の「特殊地位」又は「特别の权利及利益」の要求を广き範围において非とせり。

然れども九国条约の規定及廃弃其の他の方法に依る前记诸規定の失効は日本人の態度に何等の变更を生ぜしめざりき。石井子爵が其の最近の「メモリアル」(外交余錄)中に左记の如く述べ居るは良く同国人一般の意見を表明し居るものと谓うべし。

「石井·ランシング協定は廃弃せられたりと雖も日本の特殊利益は何等变化を受くることなく存在す。支那に於いて日本の有する特殊利益は国際協定に依り生じたるものに非ず。又廃止の目的物と為り得るものにも非ず」

满州に於ける日本の「特殊地位」の要求は支那の主权及政策に抵触す

上记满州に关する日本の要求は支那の主权に抵触し又国民政府の翹望と两立し得ざるものなり。蓋し同政府は支那领土を通じて今尚诸外国の有する特别の权利及特权を減殺し、且将来之等の特别の权利及特权の拡張を阻止せんことを企図するものなるを以てなり。日支两国が夫々满州において行い政策を考察せば此の衝突が益々拡大すべきこと自ら明らかとなるべし。

满州に於ける日本の一般的政策

1931年9月の事件に至る1905年以来日本の诸內閣は满州において同一の一般的目的を有したるものの如く為るもその目的は成就する為最も適当なりとする方法に关して見解を异にし、又治安维持に对して日本の取るべき責任の範围に付稍意見の相違ありたり。

满州における彼等の一般的目的は日本の既存利益を维持发展し、日本の企业の拡張を助成し且日本人の生命財産の充分なる保护を得るに在りたり。以上の目的を实現する為に採られたる诸政策の総てに共通する一つの主要なる特徴は满州及東部內蒙古を支那の他の部分と明瞭に区别せんとする傾向にして、右は满州における日本の「特殊地位」に关する日本人の观念より生ずる自然の结果なり。日本の诸內閣の主張したる各特别なる政策、例えば幣原男爵の所谓「友好政策」と故田中男爵の所谓「積极政策」との間に如何なる相違ありたるとするも前记の特徴は常に共通のものなりき。「友好政策」はワシントン会议の頃より始まり1927年4月せられ、「積极政策」之に代わり1929年7月に至り更に「友好政策」に戻り1931年9月外務省の正式の政策として继せられたり。右两政策の原動力たる精神には着しき相違あり。「友好政策」は幣原男爵の言を以てせば「好意と善隣の誼を基礎」とし、「積极政策」は武力を基礎とするものなり。然れども满州において採るべき具体的方策に关する两政策の相違は大部分满州における治安维持及日本の利益保护の為為すべき行動の程度の如何に在りたり。

田中內閣の「積极政策」は满州を支那の他の部分より区别することを強调し、其の積极的性質は「若し動乱满州及蒙古に波及しその结果として治安乱れ、同地方に於ける日本の特殊地位及权利利益の脅威を受くる場合、其の脅威の如何なる方面より来るを問わず日本は敢然其の权益を擁护すべき」旨の腹蔵なき宣言に依って明らかにせられたり。田中政策は其以前の诸政策が其の目的を满州における日本の利益の擁护に限定せるに反し满州における治安维持の責を日本国がとるべき旨を明らかにしたり。

日本政府は满州において有する特殊なる权益を维持发展せしむる為满州においては概して支那の他の地方に於けるより一层強硬なる政策を行えり。或內閣は武力に依る威嚇を伴う干涉政策に傾けり。右は1915年支那に对する二十一ヶ条要求の際に於いて殊に然るものありしが、二十一ヶ条要求并びに他の干涉及武力政策の得失に关しては日本国內に常に着しき意見の相違ありたり。

華盛頓会议の满州に於ける日本の地位及ひ政策に对する影响

ワシントン会议は支那の他の地方の事態に着しき影响を及ぼしたるも满州においては实際殆ど变化の見るべきものなかりき。1922年2月6日の九国条约は支那の领土保全及門戸開放に关する規定あり又同条约の効力は条文上满州にも及ぶべきものなるに拘らず、满州に付いては日本の既存利益の性質及範围に鑑み単に其制限的適用ありたるのみ。前述の如く日本は1915年の条约に依り许与せられたる借款及顾問に关する特别の权利を正式に放弃したるも、九国条约は满州に於ける既存利益に基づく日本の要求を实質上何等缩小することなりき。

日本国の張作霖との关係

ワシントン会议より1928年の張作霖将軍の死に至る期間、满州に於ける日本の政策は東三省の事实上の支配者との关係に关するものなりき。日本は彼に或る程度の支持を与えたるか、特に前章记載の郭松龄谋叛の際に於て然りとす。張作霖将軍は日本の要求中の多数に反对したりと雖も、右支持の報償として、日本の希望に对し適度の承认を与えることを必要なりと感じたり。右希望は優越せる兵力に依り何時にても強要せられ得えるものなりを以てなり。張作霖は又時に北方に於けるロシアの敵对に对し、日本よりの支持を得られんことを希望せり。

换言すれば、日本の張作霖将軍との关係は日本の見地よりして相当に满足なるものなりき。

尤も彼の晩年には、彼が日本側主張の约束及協定の一部を履行せざりし结果右关係は次第に不穏を加えるに至れり。1928年6月における彼の敗北及奉天への最後の退却前の数ヶ月前に於いては、日本側の感情が張作霖に反对に激变せむとする徴さえ顕然たるに至れり。

日本国の满州に於ける平和及秩序维持の主張

1928年春、支那国民軍が張作霖軍を駆逐せんが為、北京に進軍中なりし時、田中男爵を首相とせる日本国政府は、日本国の满州に於ける「特殊地位」に鑑み右地方に於ける平和及秩序を维持すべき旨の声明を发せり。国民軍が內乱を長城以北に及ぼさんとする惧れあるに至るや日本国政府は5月28日、指導者たる支那将軍に左の通告を送れり。

「满州の治安维持は、日本国政府の最も重視する所にして、苟も同地方の治安を紊し、若しくは之を紊すの原因を為すが如き事態の发生は、日本国政府の极力阻止せむする所なるが、既に战乱京津地方に進展し其の祸乱、满州に及ぼさんとする場合には日本国は满州治安维持の為適当にして且有効なる措置を執らざるを得ざることあるべし。」

右と同時に、田中男爵は日本政府は「敗退軍又は其の追撃軍」が满州に入るを防止すべしとの一层確然たる「ステートメント」を发せり。

右遠大なる政策の宣明は、北京及南京の两政府よりの抗议を招致したるが、南京政府の「ノート」は日本の提议するが如き措置は、唯に「支那国內事項の干涉たるに止まらず、又领土主权相互尊重の原則の甚だしき侵犯」なりと陳述せり。

日本においても、田中內閣の右「積极政策」は一党より強き支持を受けたる一方、他の一党特に幣原派に依り全满州における治安维持は日本の責任に非ずとの理由を以て、非议せられたり。

日本国及張学良間の緊張せる关係

1928年、亡父の後を承けたる張学良と日本との关係は、当初より次第に緊張を加える所ありき。日本は、满州が南京に新に樹立せられたる国民政府より分立し居らむことを希望したるが、張学良将軍は南京政府の政权を承认せんことに傾き居たり。日本官憲より張学良に与えられたる中央政府に忠順を誓うべからずとの緊忽の忠言に付いては、既に记述する所ありき。然れども奉天政府が1928年12月、奉天における政府诸官所に国民党旗を掲揚したるとき日本政府は干涉を试むることなかりき。

日本と張学良将軍との关係は、緊張を继し1931年9月直前の数ヶ月に於いては険悪なる軋轢の進展を見たり。

3.满州に於ける日支铁道問題

满州の国際的政策は主として铁道政策

四分の一世纪間、满州に於ける国際政战は、主として铁道政战なりき。纯粋なる经济上及铁道運輸上の性質に付いての考量は国策の命ずるがままに無視せられ满州诸铁道は、同地方の经济的发展の為、其の全能力を发揮したりと云うこと能わざるの结果を来せり。吾人の满州铁道問題研究が示す所に依れば满州においては包括的にして相互に有益なる铁道计画を達成せんとする協力は支那及日本の铁道建设当事者及官憲間には殆ど皆無なりき。铁道の拡張が主として经济的考量に依り决定せられたる西部カナダ及アルゼンチンの如き地方に於ける铁道の发達に反し、满州に於ける铁道の发達の歷史は主として日支两国間の拮抗問題に终始せり。従来满州に建设せられたる重要なる铁道にして支那及日本は他の利害关係を有する外国間の公文交换を伴わざるものなし。

南满州铁道は满州に於ける日本の「特殊使命」を遂行せり

满州に於ける铁道の建设は、ロシアが投資及支配下に在りたる東支铁道を以て始まり、日露战争後南部に於いては日本の管理する组织即ち南满州铁道之に代わり斯くして支那日本間の将来の对抗を必然ならしむるに至れり。南满州铁道会社は名義上私营会社なりと雖、事实上においては日本政府の企业なり。其の職能は、単なる铁道の经营のみに非ずして、政治的行政の特殊权能をも包含す。会社设立の当時より、日本人は同铁道を纯なる经济的企业として見たることなし。同社の初代社長たりし故後藤子爵は、南满州铁道は满州に於ける日本の「特殊使命」を果さざるべからずとの基本的原則を定めたり。南满州铁道纲は发達して、能率高き良く管理されたる铁道企业と成り、满州の经济的发展に大に貢献すると共に、支那人に对し学校、研究所、図書館及農事试験所の如き铁道以外の诸施设に付模範を示す所ありき。然れども会社は其の政治的性質、日本における政党政治との連繋及何等相応せる財政的利益を期待し得ざる或種の大なる支出の為に生ずる制限及積极的障害を免れざりき。右铁道会社の组织以来、其の政策は其の铁道线に連络せらるるが如き支那铁道の建设に对してのみ資本を供给し、斯くして直通運輸協定の手段に依り、貨物の大部分を租借地內大連に於ける海運輸出の為南满州铁道に転向せしめんとするにありき。此の種铁道の投資に巨額の支出ありたるが、其の建设は或る場合においては、纯粋の经济的根拠に照らし妥当なりと為し得べきやは疑問なり。殊に与えられたる大なる資本の前貸及包含せられたる貸付条件に鑑み然りとす。

满州の南京に对する忠順宣誓に先つ支那の自国铁道を建设せんとする努力

支那国土に南满州铁道の如き外国管理の施设存在することは、自然支那官憲に依り嫌悪せられ、条约及協定による权利及特权に关する問題は、日露战争以来常に发生せり。特に1924年满州に於ける支那官憲が、铁道发達の重要なるを认むるに至り、日本の資本より独立せる自身の铁道を发達せしめんとことを企図したる後においては右問題は一层危機を孕むに至れり。本問題には经济的及軍事的考慮の两者包含せられたり。例えば打虎山·通遼线は、新地域を開发し且北京·奉天铁道の収入を増加せんが為、计画せられたる次第なるが一方1925年12月の郭松龄谋叛は、独立に所有せられ運用せれるる支那铁道の有することあるべき軍事的政治的価値を示す所ありき。日本の独占を覆し其の将来の发達を妨害せんとする支那の试みは、南京政府の政治的勢力が满州に及ぶの時期以前より存せしところにして例えば打虎山—通遼、奉天—海龍城及呼兰—海倫の诸铁道は、張作霖将軍の時代に建设せられたるものなり。中央政府及国民党の助成に依り蔓延せる「利权回復」運動に依り強硬を加えたる1928年政权獲得後における張学良の政策は、恰も当時南满州铁道を中心とし集中せられたる日本の独占的膨張的の政策と衝突を来たせり。

併行线に关する紛争

1931年9月18日及其の以後满州に於いて兵力に诉えたることを正当なりとする日本側の主張に於いて、日本は其の「条约上の权利」の侵害せられたることを挙げ且1905年11月—12月、北京に於いて開催せられたる日支会议中支那国政府の為せる左记趣旨の约束を支那が履行せざりしことを強调せり。

「清国政府は南满州铁道の利益を保护するの目的を以て该铁道を未だ回収せざる以前に於いては该铁道付近に之と併行する幹线又は该铁道の利益を害すべき枝线を建设せざることを承诺す。」

满州に於ける所谓併行线問題に关する紛争は久しきに亘る重要なるものなり。同問題は1907-08年、日本国政府が右权利を主張し、支那が英国商会との契约の下に新民屯—法庫門铁道を建设せんとするを防止したる時、初めて发生せり。1924年满州に於ける支那人が更新の意気を以て日本の財政的关係より独立せる自身の铁道を发達せしめんことを企図してより以来、日本政府は支那側の打虎山—通遼及吉林—海龍城铁道建设に抗议したり。尤も右两铁道は日本側の抗议にも拘らず完成開通せり。

「条约上の权利」又は「秘密会议録」の存在に关する問題

调查委員の极東到着以前にありては日本の主張するが如き约束が現に存在するやに付大いに疑問ありき。右紛争は久しきに亘る重要なるものに鑑み、委員は緊要なる事实に关する情報を得る為特别の苦心を払えり。東京、南京及北京に於いて一切の关係文書を審查せり。而して今や吾人は彼の所谓「併行线」に关する1905年11—12月の北京会议における支那全权の约束なるものは何れの正式条约中にも包含せられあらざること、彼の問題の约束は1905年12月4日の北京会议の第11日目の会议録中に存することを陳述し得。御仁は右北京会议録中に记載ある他彼の约束を包含する文書はほかに存せざることに付日本国及支那国参与員よりの同意を得たり。

论点たる真の問題

故に论点たる真の問題は、支那側に依り满州に於いて或る铁道が右の如き约束に違反して建设せられたることを日本が主張するに足る「条约上の权利」ありや否やには非ずして、1905年の北京会议録中の前记记載辞句が「プロトコール」と称せらるると否とを問わず正式约定の効力を有し、其の適用において期間又は事情の制限なく支那側を拘束するの言質なりや否やの点にあり。

北京会议録中の右记載辞句が、国際法上の見地よりして拘束力ある约定なりや、若し然りとすれば、右に与えらるるべき妥当なる解釈は唯一なりやの問題の决定はまさに公正なる司法的裁判所に依り判定せらるるべき事項なり。

会议録中の右记載辞句の支那側及日本側の正式訳文に依れば「併行线」に关する右問題の辞句が支那側全权の意図も宣言又は声明なることに付いては疑いの余地なし。

右の如き意図の声明を為したることに付いては支那側においても之を否认せざりき。然れども论争を通し表明せられたる意図の性質に付、两国間に意見の相違ありき。日本は右使用せられたる辞句は南满州铁道会社が同铁道と競争线なりと认むる如何なる铁道をも、支那が之を建设し又は建设することを许可することを禁止するものなりと主張せり。他方支那側が论争の辞句に包含せらるる唯一の意思表示は南满州铁道の商业上の効用及価値を不当に侵害するの故意の目的を以て铁道を建设することなしとの意図の陳述なりきと主張す。新民屯—法庫門铁道计画に关する1907年の公文の交换に際し、慶親王は支那政府を代表して日本公使林男爵宛1907年4月7日付の通告中北京会议において日本全权は南满州铁道よりの特定哩数に依り「併行线」なる语の定義を定むることには同意を拒否したるも「日本は满州の開发の為支那国の将来執ることあるべき措置を妨ぐるものに非ず」と宣言することを述べたり。故に支那政府は日本が南满州に於いて铁道建设を独占する权利ありとする正当なる主張权を有したりとすることに付いては常に之を否认し来れりと雖も右期間中事实上南满州铁道の利益を明白且不当に害する铁道を建设すべからざるの義務あることは之を承认したるものの如し。

支那側において何が併行线なりやに关する定義を希望したるも、右定義は未だ定められたることなし。日本政府が1906-08年新民屯—法庫門铁道の建设に反对したるとき日本は「併行线」とは南满州铁道より略35哩以內に在る铁道なりと思考したりとの印象を生ぜしめたるが1926年日本は计画铁道と南满州铁道との間の距離は平均70哩以內なることを指摘し「競争併行线」として打虎山—通遼铁道の建设に抗议したり。充分满足なる定義を作成することは困难なるべし。

斯くの如く广く且非专門的に表示せられたる字句の解に於ける困难

铁道運用の見地より言えば「併行线」とは「競争线」を云うものにして即ち他の铁道より其の吸集し得べかりし貨物の一部を奪う线なりと云うことを得べし。競争的運輸は、地方的運輸及直通運輸の两者を包含す。而して特に後者を考慮するときは、「併行线」の建设に反对する規定は如何に甚だ广き解釈となり得べきやを知ること困难ならず。尚又何が「幹线」又は「枝线」なりやに付ても支那および日本間に何等の意見の一致なし。此等の语は、铁道引用の見地よりすれば变化するものなり。打虎山より北方に延長する北京支奉天铁道は、当初其の铁道当局に依り枝线と見做されたり。然るに同线が打虎山より通遼完成せられたる後においては、之を幹线と見ることを得。

并行线に关する约束の解釈が、支那及日本間の激しき论争に至らしめたるは素より自然の数なりき。支那側は南满州に於いて自己の铁道を建设せむることを企てたるが、殆ど総ての場合において、日本よりの抗议を惹起せり。

满州に於ける支那铁道建设に对する日本借款よリ起る诸问题

客年9月の事件发生以前、日支間の緊張を加えしめたる铁道問題の第二类は、满州に於ける支那国政府の诸铁道建设の為、日本側が資金を貸付けたる契约より生ぜるものなり。遅延金及利子をも含み、1億5千万円の現在価格に達する日本資本は、左记支那铁道即ち吉林—長春、吉林—敦化、四平街—洮南及洮南—昂々渓铁道并びに或る狭軌铁道の建设に支出せられたり。

日本側は支那側が右債務の支払を為さんとせず、又債務に对し適当なる準备を為さんとせず、尚又日本人铁道顾問の任命に关するが如き契约中の诸条項を实行せんとせざることを诉えたり。日本側に於いては日本側財团が吉林—会寧铁道の建设に参与することを许さるべしとの支那政府に依り為されたる约束を、支那側が履行せんことを缲返し要求したり。右计画线は吉林—敦化铁道を朝鮮国境まで延長し、日本の為其の海港より满州の中心に至る新たなる海陸路の利用を可能ならしめ、他の铁道と連结して內地との交通を短缩すべし。

支那側の弁疏

支那側は債務支払履行を弁疏し、右は正常なる貸借行為に非ることを指摘せり。支那側は貸付は主として南满州に於おける铁道建设を独占せんが為、南满州铁道に依り為されたること、其の目的は元来軍事的及政治的なること及何はともあれ新线は甚だしく过剰に資本を投下せられたるものなるを以て少なくとも当分は建设費及債務の償還に必要なる金銭を収得することの財政上不可能なることを主張したり。支那側は債務不履行の何れに付いても、公正なる審查を為すにおいては、其の行為の正当なることを证すべしと抗议せり。

吉会铁道については日本側の主張せる協定の道徳的及法的効力をも排除せり。

南满州铁道株式会社は支线纲设定を要望せり

借款论争を自然惹起せしむる此等铁道協定に关連し存在せる一定の事態ありき。南满州铁道は事实上何等支线を有せず。而して貨物及旅客運輸を増加する為栄養线纲を发達せしむることを欲せり。仍て会社は仮令借款が近き将来において償還せられ得るの望少なき場合と雖も新线の建设に出資することを乱せざりき。又初期の借款が行悩める場合にもより以上の出資を继することを乱せざりしなり。

斯かる状態に於いて、而して新規に建设せられたる支那线が南满州铁道の栄養线たるの役目をなし且或程度右南满州铁道の勢力下に運营せられたる限り、南满州铁道は借款の償還を強制する為何等の特别の努力を為さざりしものの如く、支那线は常に増大する借款義務を負いて運用せられたり。然れども此等铁道线の或るものが新規の支那铁道纲に連结せられ且1930年乃至1931年に南满州铁道と激烈なる競争を起こすに及んで借款の不償還は直に苦情の目的となりたり。

西原借款

此等借款協定の或る場合に於ける他の紛议を生じ易き要素は其の政治的性質なり。吉長铁道が南满州铁道会社の支配下に置かれ、同线未济の負債が1947年に满期となる長期借款に借换えられたるは所谓「二十一ヶ条要求」の结果なり。所谓「满蒙四铁道協定」の结果として1918年に出資せられたる前渡金二千万円は其の使用の目的に付何等の制限なく「安福派」軍閥政府に对し為されたる所谓「西原借款」の一なり。吉会铁道建设を目的とする1918年の借款呼び契约に关連して安福派に一千万円を前渡せるも西原借款の结果なり。支那国民の感情は「西原借款」に关し其の交涉以来激发せるにも拘らず支那政府は右借款を拒绝せざりき。斯かる状態に於いて支那国民は借款契约の条件を履行すべき道徳的義務を殆ど感ぜざりき。

吉会铁道计画

日支关係に於いて特に重要なるは吉会铁道计画に关する問題なり。最初の問題は1928年建设完成せる吉林より敦化に至る线の一部に关連す。爾来日本側は支那側が建设を目的とする日本前渡金を铁道収益に依り保障せらるる正規の借换せざるを理由とし不平をならし又支那側が同线の為日本人会计吏の任命方を拒绝し契约に違反したる旨を主張せり。

一方支那側は建设費が日本人技師の見積高より遥かに大なるのみならず、憑证提出せられたる金額をも超ゆること大なる旨を主張し、建设費の决济せらるる正式に同线を引受くることを拒绝し且右决济に至る日本人会计吏を任命すべき何等の義務をも負わざる旨を抗议せり。

何等の主权または政策の問題を包含せるかかる特定の技術的問題は明らかに仲裁又は司法的解决に付するを適当とするも、本問題は未解决のまま残され日支人相互の憤怨を助長せしめたり。

敦会线计画

一层重大且複雑なるは敦化より会寧に至る铁道の建设に关する問題なりき。同线は長春より朝鮮国境に至る铁道を完成すべく右国境に於いて付近の朝鮮港に通ずる日本铁道と連络すべし。中部满州に直接開通し且木材及鉱物資源の丰富なる地方を開拓すべき本线は经济的価値あると共に日本にとりて大なる战略的重要性を有すべし。

日本側は本线は必ず建设せらるべく且右資金供给に与からざるべからず旨を固執し又支那側は既に右の為の条约上の保障を与へたる旨を主張せり。又日本側は支那政府が1909年9月4日の間島協定に於いて「日本政府と商议の上」同线を建设すべきことを约せる旨指摘せるが右约束は满州の間島地方に对する朝鮮従来の要求を日本が放弃する代償として与えられたるものなり。後年1918年に於いて支那政府及日本诸銀行は本线建设の為の借款に对する予备的協定に署名し右協定に依り銀行側は支那政府に一千万円の金額を前渡せるが右は支那側より見れば協定の効力を阻害する事实たる西原借款の一なり。

然れども此等契约は孰れも無条件に且特定期日前に支那側をして日本資本家の右铁道建设参加を认めしむべき確定的借款契约協定には非ざりき。

一九二八年五月の契约

本线建设の為の正式且確定的缔约は1928年5月、北京に於いて署名せられたる旨主張せられたるも、其の効力に关しては幾多の疑義ありき。斯かる契约は5月13日乃至15日に非常的状態の下に張作霖元帥当時の北京政府の交通部代表者に依り確かに调印せられたり。然れども支那側は当時国民軍に依り強抗に圧迫せられ且将に北京を撤退せんとせる張元帥は若し彼にして本契约を承认せざれば奉天への退去は危殆に瀕すべしとの日本側の威嚇に因る「強迫の束縛」の下に、其の代表者をして署名せしむることを承诺せるものなる旨を主張す。又張作霖元帥自身も果たして契约に署名せりや否やは论争の点なりき。張元帥の歿後奉天東北政治委員会及張学良元帥は共に本契约は形式に欠陥あり且束縛の下に缔结せられ北京內閣又は東北政治委員会に依り未だ嘗て批准せられたることなしとの理由に依り契约を承认することを拒绝せり。

敦会线建设に对する支那側反对の理由は日本の軍事的及战略的目的を恐れ且国家の权利及利益は日本海より满州への日本の新たなる接近に依り威嚇せらるべしと信じたることに在りたり。

此の特殊の铁道問題は元来財政的又は商业的問題に非ずして日本及支那の国家的政策の衝突を包含するものなりき。

運輸連络に关する紛争

又支那及日本线間の運輸連络措置、運賃率問題及大連港と营口(牛荘)の如きは支那港との間の競争に关する問題もありき。

1931年9月に支那政府は独力にて全長约千基米の铁道を布设し所有し、且運用せり。其の最も主なるものは奉天海龍間、海龍吉林間、齊々哈爾克山間、呼兰海倫間及打虎山通遼間(京奉纲支线)铁道にして、支那政府は京奉铁道及日本資本の投ぜられたる线即吉長线、四洮线及洮昂线を所有せり。現在の紛争勃发前二年間支那側は此等诸线を一大支那铁道纲として運用せんとし且支那港たる营口(牛荘)可能の場合には胡蘆島において海口を有する支那側運用线路のみを使用して能う限りの一切の貨物を運輸すべく努力せり。其の结果支那側は其の全铁道纲に亙り運輸連络の措置をなすと共に重要线区に於いて支那线と南满州铁道との間に同样なる運輸連络協定をなすことを拒绝せり。日本側は右差别は普通少なくとも满铁线の一部を通过し大連に出口を求むべき北满よりの多大の貨物を南满州铁道より奪取するものなる旨主張せり。

铁道運賃競争

此等運輸連络紛争と併行して激烈なる運賃率問題日支两线間に勃发せり。右は支那側が打通线及吉海线の開设後賃率を低減したる1929年乃至1930年に始まれり。支那线は当時支那銀貨幣価値の暴落し従って此等诸线に於ける銀貨による賃率が南满州铁道における金円による賃率より低廉となりし结果自然的利益を得たるもののごとし。日本側が支那の賃率の余りに低廉なる為右は不正競争を構成するものなる旨を主張せしも、之に对し支那側は其の目的は南满州铁道の場合の如く元来収益を獲得するに非ずして国土を发展せしめ地方住民をして能う限り低廉に市場に到達せしむるに在る旨答え居れり。

国産製造品の利益を计る为の国家的差别の主張

将又運賃率引下げの競争に偶然随伴して双方より夫々他方は其国民の利益の為賃率の差别を又は秘密なる割戻金の支払をなす旨主張せり。日本側は支那側が支那産品を外国品より低廉に支那线上を運搬せしめ得るが如き铁道等级の区分をなし居るを非难し且支那管理の诸港に向け支那线を通じ仕向けらるる自国産品及貨物に对し普通よりも低廉なる賃率を与えるを难詰せり。又支那側においては之に对し南满州铁道は秘密の払戻をなすを非难し特に日本の運送业者が其の取扱に係る貨物に对し南满州铁道の正規表定賃率より低廉なる運賃率を掲げ居ることを指摘せり。

此等問題は全く技術的にして複雑なるものなりき。而して日支双方が夫々相手方に对して為せる非难は何れが妥当なるやを决定するは困难なりき。本問題の如きは铁道委員会又は司法的决定(本報告诸付属特别研究第一参照)に依り通常解决せらるべきものは明らかなり。

港湾に关する紛争

满州に於ける支那官憲の铁道政策は胡蘆島に於ける新たなる港湾发展に集中せられたり。牛荘は第二次港たる唯だ胡蘆島の完成に至る主港たるものなり。事实满州のあらゆる部分に至るべき数多の新規の铁道が计画せられたり。日本側は支那側に依り实施せられたる運輸連络の施设及低廉なる賃率の為通常大連に向けて運輸せらるべき多くの貨物を大連より奪取し右状態は1930年に特に顕著なりし旨主張せり。日本側は南满州铁道に依り大連に向け輸出せらるる輸出貨物は1930年に於いて百万米吨以上の減少を見たるに牛荘港は現实に前年より増加を示したる旨指摘せり。然れども支那側は大連に於ける貨物の減少は主として一般不况及普通南满州铁道に依り輸送せらるる貨物の大部分を占むる大豆の着しき暴落に起因せるものなる旨を指摘せり。支那側は又牛荘に於ける貨物の増加は新規の支那铁道线に依り最近開拓せられたる地方よりの貨物運送の结果なりと主張せり。

是等数多の铁道問題を全般的に考察するに其の問題の多くは其の性質技術的にして且通常の仲裁又は司法手に依り解决し得らるるものなること明白なれ共或るものは国家的政策に深き根拠を有する紛争より来れる日支两国間の激甚なる競争に因れるものなり。

一九三一年の日支铁道交涉

事实上一切の此等铁道問題は尚1931年の当初に於いて未解决なりき。此等悬案たる铁道問題に付政策を调和せしむるを目的とする会议の開催方に付日支双方に依り為されたる最後的且友好的努力は1月より夏的に继せられたり。所谓木村·高間の商议は何等の効果を齎さざりき。交涉が1月に開始せられたる際には双方に诚意の证迹ありたり。然れども種々の遅延あり(右に对して日支双方に責任あり)结局周到なる準备をなせる正式会议は現今の扮装の起これる時には尚行われ居らざりき。

4.1915年の日支条约及交换公文并びに关係問題

二十一ヶ条要求并に一九—五年の条约及交换公文

铁道紛争を除き1931年9月に起これる重大なる日支問題所谓二十一ヶ条要求の结果たる1915年の日支条约及交换公文より勃发せるものなり。漢冶萍鉱山(漢口付近)問題を除き1915年に缔结せられたる他の協定は或る新たなるものに替えられ又は日本国に依り自发的に放弃せられたるものあるを以て此等论争は左记诸規定に关するものなりき。

(一)关東州租借地の日本所属期限を九十九年(1997年)に延長すること。

(二)南满州铁道及安奉铁道の日本所属期限を九十九年(夫々2002年及2007年)に延長すること。

(三)「南满州」の內部に於いて即ち条约に依り或は外国人の居住及商业の為に開放せられたる地域外に土地を賃借するの权利を日本臣民に许与すること。

(四)南满州の內部に於いて旅行し、居住し及营业をなすの权利并びに東部內蒙古に於いて日支合弁に依り農业の经营をなすの权利を日本臣民に许与すること。

日本人の是等特权及特典享有の適法なる权利は全然1915年の条约及交换公文の支那政府を拘束することを否认し来れる。如何に技術的说明又は议论をなすとも「二十一ヵ条要求」なる语は事实1915年の条约及交换公文と同意语なること并びに支那国の目的は此等より自由となることに在りとする信念を支那国国民、管理の心情より奪うことを得ず。1919年のパリ会议において支那は是等の条约は「日本国の開战強迫の最後通牒の強迫に基づき」缔结せられたものなりとの理由に依り其の廃弃を要求せり。1921年乃至1922年のワシントン会议においては支那代表は「此等诸協定の公平及公正に付及従って其の根本的効力に付」問題を提示せり。而して支那が1898年ロシアに许与せる关東州の二十五年租借期限の满了に先立つ少し以前即ち1923年3月に支那政府は日本に对し1915年の诸条項の廃弃要求の通告を发し且「1915年の条约及交换公文は支那に於ける世论に依り頑強に非难せられ来れる旨」を述べたり。支那は1915年の条约は「根本的効力」を欠如せる旨を主張せるに依り情勢に依り实行するを便宜なりとせる場合を除き满州に关する诸条項の实施を怠れり。

日本は痛烈に支那に依る屡次の条约上の权利侵害を非难せり。日本は1915年の条约及交换公文は正当に署名せられ完全なる効力を有するものなる旨を主張せり。確かに日本国における世论の相当部分は当初より「二十一ヵ条要求」に同意せざりき。次いで日本の言论界は本政策を非难すること普通となれり。然れども日本政府及国民は满州に关する此等条項の有効なることを固執するに一致し居るものの如くなり。

关東州租借期限及南满州及安奉铁道特权の延長

1915年の条约及交换公文の二大重要規定は关東州租借期限を二十五年より九十九年に并びに南满州及安奉铁道の特许を同じく九十九年の期限に延長せるの規定なり。此等延長は1915年の条约の结果なること并びに以前の政府の租借せる地域の回復は支那に於ける外国の利益に反对せる国民党の「国权回復」運動中に含まれ居ることの二つの理由に依り关東州租借地及南满州铁道はしばしば煽動の目的となり又時には支那外交部の抗议の目的となれり。

斯かる問題は实際政策の背後に隠れ居りたるも、中央政府に对する满州の忠順を宣言し满州に国民党の勢力の伝播を许容したる張学良将軍の政策に依り此等問題は1928年以後深刻性を加え来れり。

又1915年の条约及交换公文に关連して南满州铁道の回収或は之を纯粋なる经济的企业と為す為に其の组织より政治的性質を剥奪せんとする運動ありたり。之が資本金及利子を払戻たる上此の铁道を回収し得べく定められたる最も早き時期は1939年なりしを以て、単に1915年の诸条约を廃弃することに依りては支那は南满州铁道を回収すること能はざりしなるべし。何れにせよ、支那が此の目的のために必要なる資金を调達し得べかりしや否やは极めて疑問とすべき所なり。支那国民党「スポークスマン」等が折に触れ南满州铁道の回収を唱えたることは、日本人にとりては一の刺激となり彼らの合法的权益は之に依りて脅威を感ぜしめられたり。

元来南满州铁道の妥当なる機能の範围如何に关する日支間の紛议は、1906年、同铁道会社组织当時より存し居れり。もちろん技術的には同铁道会社は日本の法律の下に株式组织の民間企业として成立し居るものにして、实際上全然支那の管轄県外に在り。特に1927年以来、在满支那人诸团体の間には南满州铁道よりその政治的行政的权能を剥奪して之を「纯粋なる商业的企业」たらしめんとする運動ありたるが、此の目的貫徹の為の具体案は何等支那に依りて提议せられざりしものの如し。

事实上该铁道会社は一つの政治的企业たりき。日本政府は其の株の过半数を掌握し居り该会社は同政府の代理者たり。即其の业務上の方針は密接に同政府に依りて左右せられたるが故に、日本において新內閣成立の際は该会社の高级社員は殆ど常に更迭せられたり。更に又、该会社に常に、日本の法律の下に警察、徴税及教育を含む广汎なる政治的行政的機能を付与せられ居れり。従って该会社より此等の权能を剥奪することは、当初考案せられ其後拡大せしめられたる南满州铁道の「特别使命」全部を放弃せしむることを意味したりしならむ。

铁道付属地

南满州铁道付属地內における日本の行政权に关し、特に土地の取得、徴税、铁道守备队の駐屯に关しては無数の問題を生じたり。

铁道付属地は铁道线路の两側数ヤード以外に、大連より長春并びに奉天に至る南满州铁道全系统の沿线に於ける日本の「铁道市街」と称せらるる十五市邑を含む。右铁道市街の中、奉天、長春及安東市街の如きは人口稠密なる支那人町の大地域を包含し居れり。

铁道付属地內において南满州铁道が实際上完全なる市政を施行する权利を有する法律的根拠は、1896年露清铁道原约、当该铁道会社に对し「其の土地に对する绝对的且排他的行政权」を付与せる一条項に存す。露国政府は1924年の蘇支協定にいたる、又南满州铁道に关する限り東支铁道の本来の权利を继承する日本政府はその後に於いても共に此の規定を以て铁道付属地の政治的支配权を许与するものと解釈せり。然しながら支那側においては、1896年の原约中の他の条項は该規定が警察、徴税、教育及公共工事の管理等の如き广汎なる行政权を许与することを意味したるものに非ることを明瞭にし居る旨を主張して前记解釈を绝えず否定し来れり。

土地に关せる紛争

又铁道会社の土地取得に关する紛争はしばしば缲り返されたる所なり。1896年の原约中の一条項に基づき、铁道会社は「铁道线路の建设、经营及之が保护の為实際上必要なり」私有地を買入又は賃借する权利を有せり。然れども支那側においては日本側より多くの土地を獲得せんが為に此の权利を乱用せんとしてる旨主張せり。其の结果、南满州铁道会社と支那地方官憲との間には殆ど紛争の绝ゆることなかりき。

铁道付属地內に於ける课税权に关する紛争

铁道付属地內における课税权に关する主張の相違はしばしば紛议を醸したり。日本側は元来铁道会社が「其の土地に对する绝对的且排他的行政权」を许与せられ居ることに其の主張の根拠を置けるに反し支那側は主权国の权利を以て其の论拠とせり。

要するに实際の事態としては该铁道会社は其の铁道付属地に居住する日本人及外国人に对し租税を賦课徴収せるも、支那官憲はかかる权力を行使せずに単に法律上徴税权を有することを主張せるに止まれり。累次发生せる紛议の好例としては、日本側铁道に依りて大連に輸送する為南满州铁道市街列車にて運搬せらるる大豆の如き産物に对し支那側が课税せんとした場合に起これるものを挙げ得べし。支那側の主張は、该课税をなさざるにおいては南满州铁道に依りて輸送せらるる産物に特惠を与えることとなるべきが故に、右は日本「铁道市街」の境界に於いて当然统税として徴収すべしと云うに在り。

日本の南满州铁道沿线に铁道守备队駐屯权に关する問題

日本の铁道守备兵に关する問題は、間断なく紛争を惹起せり。此等の問題は、既に言及せる满州に於ける国是の根本的衝突を示すものにして、夥しき人命を牺牲にしたる数多の事变の原因を成せり。日本が此等守备队駐屯权を有すと主張する法律的根拠は、既にしばしば引用せる如く1896年の原约中存在する東支铁道に对し「其の土地に对する绝对的且排他的行政权」を许与せる条項に在り。露国は、右条項に依り露国軍队の该铁道を守备する权利が认められたるものと主張し支那は之を否定せり。1905年の「ポーツマス」条约中に、日露两国は该两国間に於いて一km毎に二十五人を超过せざる铁道守备队を保有する权利を留保せり。然るに其の後同年中、日支間に缔结せられたる北京条约に於いては、支那政府は日露間に協定せられたる右の特别条項に同意を与えざりき。然れども日支两国は、1905年12月22日の北京条约付属協定第二条中に左の如く規定せり。

「清国政府は满州に於ける日露两国軍队并びに铁道守备队の成るべく速やかに撤退せられむことを切望する旨を言明したるに因り日本国政府は清国政府の希望に応せむことを欲し若し露国に於いて其の铁道守备队の撤退を承认するか或は清露两国間に别に適当の方法を協定したる時は日本国政府も同样に照弁すべきことを承诺す若し满州地方平静に帰し外国人の生命財産を清国自ら完全に保护したるに至りたる時は日本国も亦露国と同時に铁道守备兵を撤退すべし」

日本側の主張

本条は日本の条约上の权利の根拠をなすものなり。然れども露国は1924年の蘇支協定に依り其の守备兵を撤去し右駐兵权を放弃せり。然るに日本は、未だ满州には平静確立せず且支那は外国人を完全に保护する能力を有せざるを以て尚铁道守备队を駐屯せしむべき有効なる条约上の权利を有する旨を主張せり。

支那側の主張

日本は右铁道守备队の使用を弁护するに当り、条约上の权利を根拠とするよりも寧ろ「满州の現存事態の下における绝对的必要」を根拠として论することに漸次傾き来れり。

支那政府は日本の主張を绝えず论駁し、日本铁道守备队の满州駐屯は法律上においても事实上においても正当ならず、支那の领土及行政的保全を害するものなる旨を主張せり。前掲北京条约の規定に关しては支那政府は右は単に一時的性質なる事实上の事態を声明したるものにして、一ッ权利殊に永的性質を有する权利を付与したるものと言う能わざる旨を主張せり。更に、露国は既に其の守备兵を撤去し满州の平静は回復せられ、且支那官憲に於いて日本の守备队の妨害なき限り他の在满诸铁道に对して為しつつあるが如く南满州铁道に对しても適当の保护を与え得きが故に、日本は其の守备队を撤退せしむる法律上の義務を負うものなる旨主張せり。

日本の铁道守备队の铁道附属地外に於ける活動

日本の铁道守备队に关し发生したる紛争は铁道付属地內における駐屯及活動に限られたるものに非ず。右守备队は日本の正規兵にして、彼らはしばしば其の警察職权を持地域に及ぼし又或は支那官憲より许可を得ず或は之に通告をなすことなく、铁道付属地外において演習を挙行することしばしばなりき。

此等の行動は、官辺民間を問わず支那人一般に特に嫌悪せられ、不法なるのみならず不幸なる事变を挑发するものと見做されたり。右演習は屡次误解を生ぜしめ且支那人の農作物に夥しき損害を与え之に对し物質的賠償を為すも其の醸されたる反感を缓和し得ざりしなり。

日本领事館警察

日本の铁道守备队問題に密接に关連したるものに日本领事館警察の問題あり。右警察は単に南满州铁道沿线のみならず哈爾賓、齊々哈爾及满州里の如き都市并びに多数の在满鮮人の居住する地域たる所谓間島地方等在满各日本领事館管轄地域に存する日本领事館及同分館に所属せり。

领事館警察の满州駐在に对する日本側の主張

日本側は领事館警察存置の权利は治外法权に当然付属するものなり即此等警察官は日本臣民を保护し懲罚する上に必要なるを以て右は领事館裁判所の司法的权能の延長に过ぎずと主張せり。事实日本の领事館警察官は、其の数は满州に於けるよりも少なきも、满州以外の支那诸地方に在る同国领事館にも所属し居るものにして右は治外法权条约を有する他の诸国の一般に实行し居らざる所なり。

实際問題として日本政府は同地方の現状に於いて特に日本の重大なる利益存在し多数日鮮人の居住し得る点を顾慮せば、满州に於ける领事館警察の存置は必要事なりと信じ居るものの如し。

日本の主張に对する支那側の否定

然れども支那政府は日本が满州に於ける领事館警察存置の理由として提示せる右论旨を常に反駁し、屡本問題に关し日本に抗议し满州の如何なる地方にも日本の警察官を駐在せしむる必要なきこと、警察官問題は治外法权と关連せしめ得ざること、并びに斯かる警察官の存在は何等条约上の根拠を有せず支那主权の侵害なることを主張せり。事の当否は姑らく措き、领事館警察の存在は多くの場合に於いて右警察官と支那地方官憲との間に重大なる紛争を诱发せり。

日本人の南满州內地に於ける往来、居住及营业の权利

1915年の日支条约は「日本国臣民は南满州に於いて自由に居住し各種の商工业其の他の业務に従事することを得」と規定せり。右は一つの重要なる权利なるが、支那の他の地方に於いては外国人は一律開市場を除く他、居住及营业を许容せられ居らざるに付。右規定は支那側にとりては好ましからざるものなりき。支那政府は治外法权撤廃せられ外国人が支那の法律及司法权に服するに至るは右特权を许さるることを以て其の政策となし居れり。尤も南满州に於ては右权利には一定の制限を付せられたり。即日本人は南满州の內地を旅行中旅券を携帯し且支那の法規を遵守することを要せり。然れども日本人適用せらるべき支那の法規は先ず支那官憲に於いて「日本领事館と協议の上」に非されば施行し得ざるものとせり而して多数の場合に於いて支那官憲の行動は该条约の規定に合致せざりき。尤も右条约の有効性に关しては支那側は常に争い来れり。南满州の內地に於ける日本国臣民の居住、往来及营业に对して制限の存したる事实并びに日本人又は他の外国人の開市場外居住或は建物賃借契约の更新を禁止したる命令及規則が诸種の支那人官吏に依りて发せられたる事实に关しては、支那参与員が本调查委員会に提出したる公文書中に何等论及せられ居らず。然れども日本人を南满州及東部內蒙古の多数の市邑より退去せしむる為又は支那側家主が日本人に家屋を貸付くることを阻止する為しばしば苛酷なる警察手段に依り支持せられたる官憲の圧迫が加えられたるは事实なり。又日本側の声明したる所に依れば、支那官憲は日本人に旅券を发给することを拒み不当课税に依り彼らを悩まし又1931年9月以前数年間は日本人を拘束すべき規則は先ず日本领事に提出すべきことを约せる前记条约中の規定を遵守せざりし趣なり。

支那側の弁解及说明

支那側の目的は满州に於ける日本人の例外的特权を制限し以て東三省に对する支那の支配を強固ならしなんとする其の国策の实行に在りたり。彼らは1915年の条约を以て「根本的効力なきものと看做し其の理由の下に彼等の行動を正当なりとなし、更に条约の規定には南满州と局限しあるに拘らず日本人は满州全地域に亘り居住营业を為さんと试みるものなることを指摘せり。

右论争は一九三一年九月の事件に至る绝えず两国を剌激せり

日支两国の相反する国家的政策及目的に鑑みれば、右条约規定に关し绝えず痛烈なる论争の生ずるは殆ど避け得ざりし所なり。两国は共に斯かる形勢が1931年9月の事件に至るの彼等の相互关係に漸次刺激を加重し来れることを认容するものなり。

商租权問題

南满州內地に於ける居住并びに营业の权利と商租权とは密接なる关係を有す。右商租权は1915年日支条约に基づき日本人に许与せられたるものにして关係条文左の如し。

「日本国臣民は南满州において各種商工业の建物を建设する為又は農业を经营する為必要なる土地を商租することを得」

右条约缔结の際の两国政府間に於ける交换公文は「商租」とは支那文に依る「三十箇年より長からざる期限付きにて更新するの可能性ある租借」(不过三十年之長期限及無条件而得租)を含むものなりと定義せり。

日本文は単に「三十箇年の長き期限付きにて且無条件にて更新し得べき租借」となり居れり。其结果日本側商租は日本側の選択に依り「無条件に更新せらるるものなりや否や」の問題に关し争论发生せるは蓋し自然なり。

支那人側は日本人が满州に於て土地を獲得せむとする願望は其の租借に依ると、買入に依ると将又抵当权に依るの如何を問わず、之を以て「满州を買収せむとする」日本の国策の证左なりと解釈せり。従って支那官憲は挙つて右目的を達せむとする日本人の努力を妨害せんと试みたり。而も右は1931年9月直前三四年間、支那の「国权回復運動」が最も猖獗を极みたる時、其の勢益々旺んとなれり。

支那官憲が日本人の土地買収、其の完全なる所有权に依る保有、又は抵当に依る之が留置权の獲得に对し、峻严なる規則を制定せるは元来前记条约が単に商租权を许与せるに过ぎざりしことに鑑み、其の正当なる权利に基づきたるものと見るを得べし。然れども日本人側は土地に对する抵当权の设定を禁止するは条约の精神に悖る旨苦情を述べたり。

北满州并に南满州に於ける日本人の土地租借抵当权设定及買収

然るに支那官吏は条约の効力を认めず、日本人が土地を租借せむとするに当りては省令又は地方庁の命令を以て极力之を妨害し、日本人に土地を租借せしむる時は之を刑法を以て罚すべしとなし、或は其の租借にあたり事前に特别手数料及税を课し、或は地方官吏に训令し日本人への土地让渡の许可を禁止せんか為刑罚の脅威を以てせり。前记の如き各種の障害ありしにも拘らず、事实日本人は广大なる地域に亘る土地を端に租借せるのみならず、売買又は一层普通に行われ居る抵当流の方法に依り实際其の所有权を取得せり。但し之等地权が支那の法廷に於いて其の効力を认められしや否やは别なり。

之等土地に对する抵当权は日本の金融业者、殊に大規模なる金融会社にして其の中の或るものの如きは特に土地の取得を目的として组织せられたるものの手に落ちたり。今日本の官庁よりの資料によれば、全满州并びに熱河に於ける日本人租借地の全面積は1922—25年に於ける约80,000エーカーより1931年における500,000エーカー以上に増加せり。——右の內日本人が支那法又は国際条约の何れによるも商租权を有せざる北满州に於いて僅少なり。

日本人の土地獲得は其の売買によると租借によるとを問わず「满州に於ける支那人の生存を脅かす」经济的及政治的脅威たるべきなり。

支那側の点

支那人間に广まれる見解に従えば、朝鮮人は日本よりの移住民をして朝鮮人にに代らしめ又は政治的は经济的は殊に所有土地の処分を余儀なくせしむることにより朝鮮人の生活を窮乏化し自然满州への移住を招来せんとする日本政府の深谋より出たる政策の结果其母国を追われたるものなりとす。即ち支那側の見解に依れば、朝鮮人は其の母国に於いて外国人の政府に依りて统治せらるる一切の重要なる官職を日本人に专有せらるる「被圧迫民族」たるを以て彼らは政治的自由及经济生活の途を求めんが為、满州に移住するの止む無きに至れるなりと云う。朝鮮移民の九割は農民にして、其の殆ど全部は米の耕作に従事す。然して彼らは当初支那人により经济的に有用なるものとして歓迎せられ、其の所谓圧迫に对し自然に流露せる同情よりして大いに好意を寄せられたり支那側をして言わしむれば若し日本にして朝鮮人が帰化して支那臣民たることを拒まず、且彼らに必要なる警察の保护を与うと称する口实の下に、彼らを满州內に追躡することなかりせば、朝鮮人の满州植民は重大なる政治的乃至经济的問題を惹起するに至らざりしなるべしと谓う。支那側においては特に1927年以後满州の支那官吏が単なる小作人若は労役者以外の朝鮮人の满州定住を制限せんと努めたることを以て直ちに「虐待」の例证と看做さるることを拒绝せり。

支那側の非议に对する日本側の否认

日本側に於いては支那側の右の如き猜疑心が支那側の鮮人虐待の主たる原因なるべき认むるも、朝鮮人の满州移住を奨励する為に確定的政策を採りつつありとの非难は力強く之を否定し、「日本としては之に对し特に奨励し又は制限を加え居らず、朝鮮人の满州移住は自然の大勢の然らしむる所にして何等政治的乃至外交的動機に基かざる一現象と見る他なし」と述べたり。従って彼等は「日本は朝鮮移民を利用して之等二地方を併合せむと企画しつつありとの支那側の危惧は全然其の根拠なし」と声明せり。

朝鮮人問題による日支关係激化并に朝鮮人の牺牲

之等の相互に妥協し难き两者の見解は商租权、法权及日本の领事館警察に关する诸問題を先鋭化するの结果を招来し之等は朝鮮人にとり最も不幸なる情勢を齎し、日支关係をして益々悪化せしめたり(報告書付属書第九章参照)。

朝鮮人と商租权問題

現在日支两国間には特に朝鮮人に对し開港場以外の地において定住、居住又は营业を為すの权利、又は所谓間島地方以外の满州各地において租借又はその他方法に依り土地を取得するの权利を许与又は拒否せる何等の協定存せず。

土地商租問題に关する日支交涉

然りと雖も間島以外の满州各地に居住する右商租权問題の重要性に鑑み、1931年に至る十年間において、少なくとも三回に亘り日支直接交涉に依り何等かの協定に到達せんとの企図行われたり。而して商租权と治外法权撤廃の两問題を共に取上げ、即ち满州に於て日本人は治外法权を廃弃し、支那人は日本人に土地の自由なる租借を许すの建前による解决案か、两者において考究せられつつありしものと信ずべき理由あるも、右商议は遂に不成立に终われり。

右日本人の土地商租权に关する日支間の長期に亘る紛争は记述の他の诸問題と等しく、其の依りて来る源は相反する两国の政策に於ける根本的の不一致にありて、国際協定の侵犯呼り又は之が反駁の如きは右两国政策の根本的目的に比すれば左まで重要なるものに非ず。

5.满州に於ける朝鮮人問題

日本の法律に依り日本の国籍を有する八十万朝鮮人の满州內居住は日支間の诸政策の衝突の先鋭化を促進せり。右自体の结果诸種の紛争惹起せられ為に朝鮮人自身牺牲となり厄災と惨祸とを蒙りたり(本報告付属書第九章参照)。

朝鮮人が売買又は租借に依り满州において土地を取得するに对し支那の反对ある処、日本側は朝鮮人も等しく日本臣民として1915年の条约并交换公文によりて獲得せる商租权に均霑すべきものなりと主張して之に反对せり。而して日本人は朝鮮人が帰化によりて支那臣民たることを否认せるが為兹に亦二重国籍の問題发生せり。朝鮮人の关し及保护の為日本领事館警察の使用は支那側の忿满を招き屡日支警察の衝突を惹起せり。殊に朝鮮の北境に接する間島地方の如く朝鮮人の居住者四十万人に及び同地支那人をして1927年に至るに及满州に於ける朝鮮人の自由居住を禁止するの政策を採るに至らしめたり。右政策は日本人側より许すべからざる弾圧の一例として目せられたり。

满州に於ける朝鮮人の地位に关する日支協定

满州に於ける朝鮮人の地位及权利は主として日支間に於ける左记三協定に依りて决定せらる。即ち1919年9月4日の間島協约、1915年5月25日の南满州及東部內蒙古に关する条约及交换公文并びに1925年7月8日の所谓「三矢協定」之なり。而して朝鮮人の場合に起こり来る二重国籍に关する機微なる問題に关しては日支間に何等の協定なし。1927年に至るに及び支那官憲は一般に事实朝鮮人は满州に对する「日本の侵略并びに併合の前衛」なりと信ずるに至れり。斯かる見解よりすれば日本が朝鮮人の帰化して支那臣民たることを认めず殊に日本の领事館警察が常に朝鮮人に对する监視を怠らざる以上、朝鮮人の数も恐らく四十万人を超过すべく而して彼等は各処に广く分布し特に满州の東半部に拓れり。彼等は吉林省中朝鮮の北境に近き地方に多く居住し。又東支铁道の東部线地方、松花江下流地方及朝鮮の東北部より烏蘇里、黒龍两江の流域地方に及ぶ露支国境方面に浸潤し、彼等の居住并びに定住は隣接ソ連邦の领域內溢れ出たり。加之其の祖先が数代以前に移住して满州民族となり终せる朝鮮人の群れ夥多ある一方、朝鮮人中には日本の覊绊を脱し帰化支那臣民となれるものがある為、朝鮮人中事实間島以外の满州各地において所有权又は租借权により農地を取得せるもの多数に上れり。然れども彼等の大部分は支那人地主との間に収穫分配の基礎の上に结ばれたる租借契约に依り、単なる小作人として米作に従事するに过ぎず。而してその契约は概ね一年乃至三年の期限に限られ、且其の更新も地主の自由に委せらるるを常とす。

朝鮮人の商租权に关する日支協定に付いての紛争

支那側は朝鮮人が間島地方以外の满州各地において土地を買収し、又は租借する权利を否认す。何となれば本件に关する日支間の唯一の協定は1909年の間島協约あるのみにして右は其の適用を此の地方に局限し居ればなり。故に唯支那臣民たる朝鮮人のみか满州內地において土地を売買し又は居住并びに土地租借の权利を有す。支那政府は朝鮮人の满州に於ける土地の自由租借の权利に关する要求を否认し間島地方に限り朝鮮人に对し土地取得の特殊なる权利を伴う居住权を与え之等朝鮮人が支那の法权に服すべき旨を取极めたる1909年の間島協约は、夫自身「当時日支間において悬案となり居たる地方的诸問題を互让によりて解决せんとせる」独立せる取极めなりしなりと称せり。即ち間島協约は支那が朝鮮人に農地を所有すべき特殊权利を与える代償として、日本が之等朝鮮人に对する法权を放弃すべき筋合いのものたりしなりと谓う。

支那側の主張

斯て日支两国は1910年日本が朝鮮を併合したる後も、同協约を遵守し来りし処、支那側においては1915年の条约并びに交换公文は、右間島協约の規定に变更を加えること能わず。何となれば特に新条约はその一条項中において「满州に关する日支現行各条约は本条约に别に規定するものを除くの他一切従前の通实行すべし」と規定すればなりと谓う。而して間島協约に关し、何等の例外規定は设けられざりき。尚支那政府は1915年の条约并びに交换公文は間島地方には適用せられず、何となれば右地方は地理的に云えば南满州——由来本语は地理的并びに政治的に误用せられたり一部には属せざればなりと谓う。

日本側の主張

右支那側の見解に对しては1915年以来は绝えず论争し来れり。彼等は曰く、1910年朝鮮併合に依り朝鮮人は日本臣民となりたるを以て日本臣民に对し南满州に於ける居住权并びに東部內蒙古における合弁農业企业参加を许与したる南满州并びに東部內蒙古に关する1915年の条约并びに交换公文の規定は等しく朝鮮人に对しても適用せらるべきものなりと。即ち日本政府の主張に依れば、間島協约の条項中1915年の協约の条項と矛盾するものは後者よりて廃弃せらるべく(間島において朝鮮人の獲得せる权利は实に日本が右地方を支那の一地方なりと承认せる结果に基づくものなるを以て)支那側が間島協约を目して全然独立なる取极めなりと主張するは全然误れるものと谓うべし。日本側においては若し满州に於ける朝鮮人に对し他の日本臣民の许与せられたると同样の权利及特权を要求せざらんか、右は朝鮮人に对し差别を设くることとなるべしと主張す。

日本側が满州に於ける朝鮮人の土地獲得を奨励せる理由の一つは日本のために米穀の輸出を得んとする願望による処右願望は今の処一部分達成せられたるのみなり。何となれば恐らく1930年産出の700万ブッシェル以上の米の中约半分が地方的に消費せられ、残部の輸出は制限せられたればればなり。日本側は朝鮮人小作人は支那人地主の為に荒蕪地を開墾して利益あるものと為したる後不法に追放せられたりと主張す。

两国主張の相异の朝鮮人の地位に及ぼす影响

一方支那側は可耕低地が米を産出することを等しく希望するも彼等は土地其のものが日本人の手に入ることを防がんが為に概ね朝鮮人を小作人又は労働者として雇用せり兹に於て多数の朝鮮人は土地を所有せんが為に、帰化支那臣民と為りたるが、其の中の或者は地权を獲得すると共に、之を日本人の土地抵当会社に让渡せり。右は即ち日本人自身の內に於ても日本政府が朝鮮人の帰化して、支那臣民たるを认むべきや否やに关し议论の分かれたる一理由を暗示し居るものと云うべし。

满州に於ける朝鮮人の二重国籍問題

1914年制定の支那国籍法によれば外国人にして支那に帰化し得べきものは其の本国法によりて他国に帰化することを认められ居る者に限れり。然るに1929年2月5日の修正支那国籍法は支那の国籍を取得するが為には、外国人が其の原国籍を喪失することを要する旨の規定を包含す。従って朝鮮人は日本の法律の下においては其の帰化を认めざる旨の日本側主張に关係なく支那に帰化せり。日本の国籍法は未だ嘗て朝鮮人がその日本国籍を喪失することを认めず。而して1924年の改正国籍法は「自己の死亡によりて外国の国籍を取得したる者は日本の国籍を失う」との趣旨の条項を有すれども未だ右一般的法律を朝鮮に適用すべき旨の勅令の发布を見ず。然るにも拘らず满州に於ける朝鮮人の多数は支那に帰化し、或地方殊に比較的日本の领事官憲の手の及ばざる地方に在りては其の数全朝鮮人人口の5%乃至20%に達せり。又偶々满州の国境を越えソ連邦の领域に移住したるものにして同国の市民と成りたるものもあり。

朝鮮人の二重国籍問題が支那の政策に及ぼせる影响

右朝鮮人の二重国籍問題は支那の国民政府及满州の地方官憲をして挙げて朝鮮人の無差别的帰化を喜ばず、彼らが仮に支那国籍を取得したる後将来農地獲得に关する日本の政策の手先となるべきことを恐れしむるに至れり。1930年9月、吉林省政府の公布せる同省內の土地売買に关する規則中には「帰化朝鮮人が土地を買収せんとするときは右朝鮮人は永久に帰化市民として居住する手段として右土地を買収せんと欲するものなりや、将又日本人の為に買収せんと欲するものなりやを審查するを要す」との規定あり。然れども地方官吏は時に上级官庁の命令を励行することあるも屡省政府及南京內政部の认可を擁する正式证明書の代わりに、仮帰化证を发给する等其の態度一貫せざるものあり。之等地方官吏中特に日本领事館より遠隔の地にある者は朝鮮人よりの出願ありし場合は、直ちに斯の種证明書の发给を承诺せることしばしばなり。而して彼等は時に实際朝鮮人に帰化を強制し、或は之を国外に追放せるが、右は日本側の政策及帰化手数料より得る収入の影响を受けたるものなり。更に支那人側の主張する所によれば日本人中には之を傀儡地主として使用し又は之等帰化朝鮮人よりの让渡により土地を獲得せんが為にしばしば自ら通谋して朝鮮人帰化の企みを為すものある由なり。然れども概括的に言えば、日本官憲は朝鮮人の帰化を排し出来得る限り其の法权を彼らに及ぼしたり。

朝鮮人の关係する警察权の主張の衝突問題

日本が治外法权を有する结果としての满州に於ける领事館警察维持の权利の主張はこれに朝鮮人の关連する場合绝えざる紛争の原因を形成せり。朝鮮人が彼等の為にする表立ちたる日本の干涉を欲すると否とに拘らず、日本の领事館警察は特に間島地方においては啻に保护的任務に当りたるのみならず、朝鮮人居宅の捜索及差押を行うの权利を欲しいままに支那側、右は独立運動者又は共産若は反日運動に关係ありとの嫌疑ある朝鮮人に对し特に甚だしかりき。又支那警察は支那の国法を实施し、治安を维持し又は「不逞」鮮人の活動を抑圧せんと努るにあたり、しばしば日本警察と衝突せり。東部奉天省において支那側が「不逞鮮人团」を弾圧し、且日本側の要求に応じ「不逞鮮人」を引渡すべきことを協定せる1925年所谓「三矢協定」に規定せる如く、日支两国の警察は幾多の場合において協力の实を挙げたるも、实情は寔(マコト)に不断の紛争軋轢に他ならず、斯くの如き形勢が紛攪を惹起すべきは当然のことなりき。

間島の特殊問題

朝鮮人問題并びに之に基づく間島地方に关する日支关係は特に複雑且重大なる性質を帯びるに至れり。間島(日本语にては「カントウ」朝鮮语にては「カンドウ」と呼ばる)は遼寧奉天省の延吉、和龍、汪清の三県より成り、且慣習上は日本政府の態度により明らかなるが如く、琿春県をも包含し、之等四県は們江を隔てて朝鮮の東北隅に隣接す。

日本の間島に对する態度

日本側は間島地方に对する鮮人の伝统的態度を叙说し、1909年の間島協约により该地方が支那又は朝鮮の孰れに帰属すべきやの問題が、永久に终结を告げたりと认むることを欲せず。蓋し右は、同地方に於ける朝鮮人住民数は圧倒的多数を占め、耕作地の过半は朝鮮人の耕作する所に係り、「同地方は事实上一鮮人地域と看做し得る程度に朝鮮人は牢固たる地歩を樹立したり」と云うに在り。日本政府は間島において他の满州各地に比し一层朝鮮人に对し法权并びに监視を励行せんことを主張し四百名以上の领事館警察官を多年同地に配置したり。又日本领事館は朝鮮総督府の任命せる日本人官吏と協力し同地方において行政的性質を有する广汎なる权力を行使し、其の職能は日本人学校、病院及政府の補助する朝鮮人に对する金融機关の维持を包含せり。该地方は米田を耕作する朝鮮移民の自然的捌口と看做さるる一方、永く朝鮮独立主義者共産团体及其の他不逞反日徒輩避难の地なるを以て政治上においても特殊の重要性を有す。而して又間島は1920年琿春における鮮人の反日暴動により明らかにせられたる如く朝鮮における独立運動勃发後日本が朝鮮统治の全般的問題と密接なる政治的诸問題を有したる地方なり。

この地域の軍事的重要性は即們江の下流が日本、支那及ソ連邦领土の境界を為すものなるにより明白なり。

間島協约に关する日支解の抵触

間島協约は「従来の通り們江北の農耕地における朝鮮人の居住」は支那国より许容せらるべき旨、右地域に居住する朝鮮人は以後支那国地方官憲の管轄裁判に服すべき」旨、右朝鮮民と支那人と同等の待遇を许与せらるべき旨、及右朝鮮人に关する民事及刑事一切の事件は「支那国官憲に依り審問及判决せらる」べしと雖も一命の日本国领事官は法廷に出席するを许さるべく特に人命に关する重要事件において然り。而して特别の支那司法手きの下に「支那国官憲に对し再審を要求する」の权利を有すべき旨を規定せり。

然れども日本側は司法問題に关する限り1915年の日支条约及各処は間島協约を超えて適用あるものにして1915年以後は朝鮮人は日本国臣民として日支诸条约の下に治外法权に关する一切の权利及特权を认められるべきものとなす立場を取来れり。此の议论は支那国政府に依り认められたることなく、支那側は若し朝鮮人の農耕地居住权に关し間島協约の適用あるものとせば、朝鮮人は支那の管轄裁判に服すべしと規定する同条约の诸条項も亦適用あるものなる旨を固執せり。日本側は朝鮮人の農耕地居住を认むる条項は間島において右土地を購入及商租するの权利を意味するものと解し、支那側は右解釈に反对して、同条項は字句通りに解せらるべきものにして只帰化に依り支那国臣民と為れる朝鮮人のみ同地において土地購入权を有すと為す立場をとり居れり。

朝鮮人土地所有の現状は变態なり

故に現状は变態を呈す。何となれば間島には支那に帰化せざる朝鮮人にして支那国地方官憲の黙认に依り土地所有权を獲得せる者あり。尤も朝鮮人自身は通例間島において土地購入权を得る為には支那国籍を取得すること必要条件なりと认め居れり。日本側当局の统计に依れば間島(琿春を含む)の可耕地の半以上は朝鮮人の「所有」と為り居る処、同時に同统计は同地の朝鮮人の15%強が帰化して支那国臣民となり居れることを认め居れり。右土地「所有」者か之等帰化朝鮮人なりや否やは兹に確言することを得ず。斯かる状態は自然幾多の不規則及不断の紛争を惹起し、日支警察官憲間の公然たる衝突となりたること一再ならず。

支那の朝鮮人压迫に对する日本の主張

日本側は1927年末頃より一般的排日運動に伴い、支那国官憲の煽動に依り满州に於て朝鮮人迫害運動起これることを主張し又此の圧迫は满州诸省が南京国民政府に忠诚を宣言せる後更に熾烈を加えたることを陳へ居れり。或は朝鮮人を強制して支那に帰化せしめ、或は米田より彼らを駆逐し、或は彼らに移住を強制し、或は彼らに不当の纳金及法外なる租税を课し、或は彼らをして家屋及土地の商租または貸借契约を结ぶことを禁じ、或は彼らに幾多の暴力を加えるなど、朝鮮人に对する支那の徹底的圧迫政策の证拠として满州に於ける中央及地方の支那官憲の发したる多数の命令の翻訳委員会に提供せられなり。日本の主張に依れば右惨虐なる運動は特に「親日」朝鮮人に对して行われ、日本政府より補助金を受ける朝鮮人居留民会は迫害の的となり、朝鮮人により又は朝鮮人の為に设立せられたる支那学校に非る学校は閉鎖せられ、「不逞鮮人」は朝鮮人農民より脅迫に依り金銭を徴収し又之に暴行加害を為すことを许され、又朝鮮人は支那服を着用することを強制せらるると共に其の悲惨する状態に对し日本の保护又は補助に依頼する一切の权利を放弃するのやむなかりし趣なり。

满州官憲が帰化せざる朝鮮人に对し差别的命令を发せる事实は、支那側之を否定することなし。此種命令の数及性質特に1927年以後のものを見るに满州の支那官憲は一般に日本の司法管轄を伴う限り朝鮮人の侵入は一つの脅威にして反对すべきものと认めたること明白なり。

朝鮮人問題に对し委員会のひたる特别の注意

日本の主張の重大なるに鑑み、又满州に於ける朝鮮人の哀れむべき状態に鑑み、委員会は本問題に对し特别の注意を払えり。而して本委員会は必ずしも右非难の全部が事实を適当に叙述せるものとは认めず又朝鮮人に適用せられたる右抑圧手段の或ものか全然不正なりしものと断ずることなしと雖も、只满州の或地方における朝鮮人に对する支那の行動に关する右一般的记述を確认するものなり。委員会は其の满州置在中朝鮮人团体の陳情委員と称する多数の代表者を引見せり。

满州に於ける此の大なる少数民族なる朝鮮人の存在が土地商租、司法管轄权及警察、并びに1931年9月事件の序幕を為せる经济的抗争に关する日支紛争を複雑ならしめたることは明白なり。大部分の朝鮮人の欲する所は只自由は其の生计を稼がすとするに在るも、其の中には支那人又は日本人より又は其の两者より「不逞鮮人」と呼ばるる团体ありて、右は日本の统治より朝鮮を独立せしめんと主張する者及其の同志、共産主義者、職业的犯罪人密輸入者及売薬业者を含む職业的犯罪人、并びに支那人匪賊と结託して其の同胞より恐喝取財を行い又は金銭を強制する者を包含し居れり。朝鮮人農民自身も其の無智、無用心により又彼らより更に狡猾なる家主又は地主より借財せる為、しばしば自ら圧迫を招来せり。

朝鮮人待遇に关する支那側说明

朝鮮人が支那側見解よりすれば日本の满州に对する一般政策の不可避的结果たる争论の涡中に不识々々巻き込まれることは别とし、支那側は所谓朝鮮人「圧迫」なるものの多くは之を圧迫と称すること正当らず、又朝鮮人に对し支那の執れる方法の或ものは日本国官憲より現に是认せられ又は黙过せられたりと述べ居れり。支那側は朝鮮人の大部分は极めて反日的なること、日本が彼等の故国を併合せることに终始反对なること及朝鮮人移民は决して其の故国を去るを欲せるものに非ず政治的及经济的困难に基づく苦痛の為に故国を去れるに他ならずして一般に满州に於て日本の监視より免るるを欲するものなることを忘るべからずと主張し居れり。

所谓一九二五年「三矢協定」

支那人は朝鮮人に对し或程度の同情を示すも、1925年6—7月の「三矢協定」の存在に付注意を喚起し、之を以て日本国民が「不良分子」と目し又朝鮮における日本の地位に对する脅威と目する朝鮮人の行動は支那側官憲においても進んで之を抑圧したることの证拠となし、又日本側において支那側の朝鮮人「圧迫」の实例として挙げんとするが如き右记行為の或ものに对し日本自身公式の承认を与えたる证拠なりと為す。外間には未だ广く知悉せらるるに至らざる本協定は朝鮮総督府警務局長と支那奉天省警察長官との間に商议せられたるものなり。同協定は東部奉天における「朝鮮人结社」(反日的のものと推定せらる)の禁遏に关する日支警察官の協力を目的とするものにして「支那官憲は朝鮮官憲の指名せる朝鮮人结社の首领を直ちに逮捕し之を引渡すべき」こと、及「不良分子」たる朝鮮人は支那警察官之を逮捕し裁判所及処罚の為め日本警察官に引渡すべきことを規定す。故に支那側は「朝鮮人に待遇に关し或種の禁遏的手段を執れるは主として此の協定に实際的効果を与えるを目的とす。若し右手段が支那国官憲の朝鮮人圧迫を示す证拠として考えらるるにおいてはかかる圧迫手段は仮令事实なりとするも是れ主地して日本国の利益の為に行われたるものなり」と主張す。更に支那側は「自国農民との激烈なる经济競争に鑑み、支那官憲が其の同胞の利益を保护する手段を讲ずる固有の权利を執行すべきは实に当然なり」と主張す。

6.萬寶山事件に於ける反支暴動

萬寶山事件の一九三一年九月事件に对する关係

萬寶山事件は中村大尉事件と共に满州に於ける日支間の危機を齎せる直接原因として广く认めらる。然れども前者の真重要性は大に誇張せられたり。何等死傷者を出さざりし萬寶山事件の誇大なる報道は日支两国民間に強き反感を起こさしめ、朝鮮に於いては支那在留民襲撃の大事を惹起したり。此の反支暴動は次いで支那における排日ボイコットを復活せしめたり。事件其者としては萬寶山事件は过去数年間满州に发生せる日支两国軍又は警察队の衝突を诱发せる他の数事件よりも重大なりしものには非ず。

支那人地主及支那人仲介人間の水田商租契约は支那国官憲の正式承认を要せり

萬寶山は長春の南约十八哩に位する一小村にして伊通河に沿う低湿地なり。此の地において支那人仲介业者赫永徳なる者1931年4月16日付契约を以て長農水田公司の為め支那人地主より广大なる一画の地を商租せり。契约中には県長其の条項の承认を肯せざる場合には契约は無効なるべき旨規定せられたり。

此の土地は支那人仲介人より朝鮮小作人に对し再商租せられたり

此後暫時にして右商租者は此の土地全部を朝鮮人の一团に再商租せり。此の第二契约は其の实施に付官憲の承认を必要とする規定を含まず、又朝鮮人が灌溉用水溝及付属の小溝を構築することを当然のことと看做し居たり。赫永徳は先ず支那人地主との原商租契约に对する支那側の正式承认を取付くることなくして朝鮮人農民に对し此の土地を再商租せる次第なり。

朝鮮人が支那人所有土地を横切りて灌溉水道を開发したること同地方の支那側反对を惹起したる主因なり

第二契约缔结直後朝鮮人は数哩に亙り灌溉溝又は水道の開穿を開始し、伊通河の水を引きて此の低湿地に之を分かち此の土地を水田耕作に適せしめんとせり。然るに何れの商租契约の当事者にも非る支那人の大面積の耕地伊通河と朝鮮人の右商租地との間に介在したるを以て、右水道は该耕地を横断せり。朝鮮人は灌溉溝に依り其の土地に充分の水を引き来る為伊通河に堰を築かんとせり。

支那農民は灌溉溝工事の停止及朝鮮人の退去を要求せり

既に相当の長さの灌溉溝完成せる後水道に依り其の土地を横切られたる支那農民は群れをなして放弃し萬寶山当局に抗议し彼らの為め干涉せんことを请願せり。其の结果、支那地方官憲は現場に警察官を派し朝鮮人に对し即時開穿を停止し同地より退去せんことを命じたり。之と同時に在長春日本领事館は朝鮮人保护の為め领事館警察官を派遣せり。日支代表間の地方的交涉は問題の解决に成功せざりき。其後暫時にして两国側共増援警察官を派して互いに抗议、反駁すると共に交涉を试みたり。

長春に於ける支那及日本官憲は共同调查を行ふことに意見一致せり

6月8日、两国側は其の警察队を撤去し萬寶山に於ける事情の共同调查を行うことに意見一致せり。此の共同调查の结果、原商租契约は若し支那県長の承认なきときは全契约「無効」となるべき旨の規定を有したること并びに県長の承认は未だ与えられたることなきこと明らかとなれり。

要领を得ざる调查

然るに共同调查員は其の调查の结果に付何等意見の一致を見るを得ざりき。即ち支那側においては灌溉溝の開穿は之に依り其の土地を横切られたる支那農民の权利を侵害せること明白なりと主張し、日本側においては朝鮮人は其の商租手の误谬に付何等責任無かりしも不拘、右误谬の故に排斥せらるることは公正ならず故に其の工事继を许容せらるべきなりと主張せり。其後幾何もなく朝鮮人は日本领事館警察官の援助を得て水道開穿を行せり。

七月一日事件

7月1日の事件は斯かる事態より惹起されたり。同日、灌溉溝に依り其の土地を切断せられたる四百名の支那農民の一队は農具及矛槍を携えて朝鮮人を駆逐し灌溉溝の大部分を埋立てたり。兹に於て日本领事館警察官は右暴徒を散せしめ朝鮮人を保护する為め发砲したるも何等被害はなかりき。支那農民は撤退し日本警察官は朝鮮人が水溝及伊通河の堰を完成する現場に屯留せり。

7月1日事件以後支那地方官憲は在長春日本领事に对し日本领事館警察官及朝鮮人の行動に付抗议を继せり。

朝鮮に於ける反動暴動

萬寶山事件よりもはるかに重大なりしは朝鮮に於ける本事件に对する反動なりき。日本语及朝鮮语新聞に记載せられたる萬寶山における事態、殊に7月1日事件の誇大なる報道の结果は朝鮮全道に亙り激烈なる反支暴動の发を見たり。右暴動は7月3日、仁川に始まり急速に他市に伝播せり。

支那居留民の受ける生命財産の重大な損害

支那側は其の广報に基づき、支那人百二十七名虐殺せられ、三百九十三名負傷し、二百五十万円に達する支那人財産は破坏せられたりと称す。

朝鮮に於ける日本官憲の所谓責任

尚支那側は日本官憲が暴動阻止に付適当の手段を讲ぜず且之を镇圧せず遂に支那人の生命財産に多大の損失を与えたりとの理由の下に在鮮日本官憲は右暴動の结果に对し責任ありと主張す。日本及朝鮮の新聞は7月1日の萬寶山事件に付、支那在留民に对する朝鮮民衆の憎悪の念を起さしむるが如き性質の煽動的且不正確なる记事の掲載禁止を受けざりき。

然るに日本側は右暴動は民族的感情の自然的爆发に依るものにして日本官憲は右暴動を出来得る限り速やかに镇圧せりと主張す。

朝鮮に於ける暴動は支那に於ける排日「ボイコット」を激成せり

此の重要なる一结果とも云う可きは朝鮮に於ける右暴動が直ちに支那全国を通じ排日ボイコットを復活せしむるに至れることなり。朝鮮における排支暴動直後萬寶山事件の未だ解决せられざるに先ち支那政府は日本に对し暴動の廉に依り抗议を為し暴動镇圧失敗に对する全責任を負わしめたり。日本政府は7月15日、回答を发し、右暴動の发生に对し遺憾の見を表し且死者の家族に对し賠償金を提供せり。

日本政府は排支的暴動に对し遺憾の意を表し且つ死者の家族に对する賠償金を提供せり

7月22日より9月15日に至る日支地方及中央官憲の間に萬寶山事件に关する交涉及覚書の交换ありたり。支那側は1909年9月4日の間島協约に依れば朝鮮人の居住及借地の特权は間島地方以外に及ばざるを以て萬寶山に於ける紛议は朝鮮人が斯かる居住の权利なき場所に居住せし事实に基づくことを主張す。

萬寶事件に关する支那側抗议の根据

支那政府は日本领事館警察に駐在することを抗议し、且萬寶山に多数の警察官を派遣せることは7月1日事件の诱因を為せる旨主張せり。

日本側の主張

他方日本側は朝鮮人の居住及借地の特权は間島協约に依り限定せられずして南满州を通じ一般日本臣民に许与せられたる居住及商租に关する权利に包含せらるるが故に朝鮮人は萬寶山において居住及商租に关する条约上の权利ありと主張せり。尚其の主張に拠れば朝鮮人の地位は他の日本臣民の地位と同一なり又日本側は朝鮮人は善意を以て米の耕作计画を為せるのみならず、日本官憲は租借契约を取扱たる支那人仲介人の不始末に对し責任を負うことを得ずと主張せり。

日本政府は萬寶山より领事館警察撤退に同意せるが朝鮮人小作人は依然同地に留まり其の米作地の耕作を继せり。

7.中村大尉事件

中村事件の重要性

中村大尉事件日本側の見解に依れば满州に於ける日本の权益に对し支那側が全然之を無視せる幾多の事件が遂に其の极点に達せるものなり。中村大尉は1931年盛夏の候、满州の僻遠なる一地方において支那兵に殺害せられたり。

中村大尉は满州奥地に於けて軍事的使命を有せり

中村震太郎大尉は日本現役陸軍将校にして日本政府の认めたるが如く日本陸軍の命令による使命を有したり。哈爾賓通过の際、支那官憲は同大尉の护照を検查せるが同大尉は農业技師と自称せり。其の際、同大尉は其の旅行地域は匪賊横行地域なる旨警告せられ右事情は同大尉の护照に记載せられたり。同大尉は武器を携帯し且売薬を所持し居たるが支那側に拠れば売薬中には薬用に非る痺薬ありたり。

中村大尉及從者支那兵に殺害せらる

6月9日、中村大尉は三名の通訳者及助手を伴い東支铁道西部の伊勤克特駅を出发せり。同大尉が洮南の方向において奥地へ相当の距離にある一地点に到達せる際、一行は屯懇軍第三团長关玉の指揮する支那兵に监禁せられたり。数日後、6月27日頃、同大尉及一行は、支那兵の為に射殺せられ死体は右行為の证拠隠滅の為、焼弃せられたり。

日本側の主張

日本側は中村大尉及其の一行の殺害は不正にして日本軍队及国民に对する侮辱なりと主張し又在满支那官憲は事件の公式调查を遅延し事件の責任を回避し且支那官憲は事件の真相を確むる為あらゆる努力を為しつつありと称するも何等诚意なかりしと主張せり。

支那側の主張

支那側は当初中村大尉及一行は慣習上內地旅行の際外国人が所持すべき许可证を検查する期間中监禁せられたること、同大尉一行は厚遇せられたること及中村大尉は逃走を企てつつある際一歩哨に射殺せられたることを主張せり。支那側に拠れば中村大尉は身辺に日本軍事地図一葉及日记帳二冊を含む書类を携帯せることを发見せられたるが、右は同大尉が軍事偵察若しくは特别の軍事的使命を帯びたる将校なりしことを证するものなり。

调查

7月17日、中村大尉死去の報が在齊々哈爾日本総领事の许に到達せるが同月末在奉天日本官憲はは支那地方官憲に对し中村大尉が支那兵に依り殺害せられたる確实なる证拠を有する旨を通告せり。8月17日在奉天日本軍当局は中村大尉死去の最初の報道を公表せり(1931年8月17日「マンチュリア·デイリー·ニュース」参照)。同日林総领事及事件调查の為東京日本陸軍参谋本部より满州へ派遣せられたる森陸軍少佐は遼寧省主席臧式毅と会見せるが臧主席は即時同事件を调查す可きことを约せり。

臧式毅主席は其の後直ちに北平の一病院に病臥中なる張学良元帥及在南京外交部長に之を通告し、又二名の支那人调查員を任命し直ちに所谓殺害の現場へ赴きたり。右二名の调查員は9月3日、又日本陸軍参谋本部の為独立に调查を為しつつありし森少佐は9月4日、奉天に帰還せり。同日、林総领事は支那参谋長栄臻将軍を访問し同将軍より支那调查員の判定は不確实且不满足なりしを以て再度调查の必要ある可き旨の通告に接せり。栄臻将軍は满州事態の新たなる進展に关し張学良元帥と協议の為、9月4日、奉天に帰還せり。

解决の爲の支那の努力

張学良元帥は满州に於ける事態の重大なるを知り、臧式毅主席及栄臻将軍に对し遅置なく中村事件の現地再调查を训令せり。張学良元帥は本事件に对し日本陸軍が多大なる关心を有することを其の日本人軍事顾問より知りたるを以て事件を有効的に解决せんと欲する意思を明らかならしむる為、柴山少佐を東京に派遣せり。柴山少佐は9月12日、東京に到着したるが其の後の新聞報道に拠れば張学良元帥は中村事件の速急且公平なる结末を得んことを切望し居る旨述べたり。其の間張元帥は满州に关する诸種の日支係争問題解决のため两国にとり何等共通点ありやを確めしむる目的を以て高级官吏湯爾和を外務大臣幣原男爵と協议せしむる為特别の使命の下に東京に派遣せり。

湯爾和氏は幣原男爵、南大将及他の陸軍高级武官と会谈せり。9月16日、張学良元帥は新聞记者と会見せるが新聞は張学良元帥が中村事件は日本側の希望に基づき臧式毅主席及满州官憲に依り処理せられ南京政府は与からざる可き旨述べたりと報道せり。

第二回支那调查团は中村大尉殺害の現場を視察せる後、9月16日朝帰奉せり。18日午後、日本领事は栄臻将軍を访問せるが其の際同将軍は关玉团長は9月16日、中村大尉殺害の責により奉天に召還せられ即時軍法会议において裁判せらる可き旨述べたり。日本側は奉天占领後关团長が支那側により陸軍监獄に监禁せられ居る旨发表せり。

在奉天林総领事は9月12日及13日、日本外務省に对し「调查員の奉天帰還後恐らく友好的解决を見る可きこと」殊に栄臻将軍は遂に支那兵が中村大尉殺害に对し責任あることを认めたることを報告せる旨報道せられたり。日本電報通信社奉天通信員は「支那兵墾軍团の兵队による日本陸軍参谋本部中村震太郎大尉の所谓殺害事件の有効的解决は近きにあり」と9月12日電報せり。然れども幾多の日本陸軍将校、殊に土肥原大佐は中村大尉の死去に对し責任ありと称さるる关团長は奉天において监禁せられ其の軍法会议の日取りが一週間以內なる可きものとして发表せられたる事实に鑑み、中村事件の满足なる解决を図らむとする支那側努力の诚意如何に付引き疑惑を表明せり。支那官憲は9月18日午後開催せられたる正式会议において、在奉天日本领事官憲に对し支那兵は中村大尉の死に对し責任あることを认め又速やかに事件が外交的に解决せらる可き希望を表示せるにより中村事件解决の為の外交交涉は9月18日夜は好都合に進展しつつありしが如し。

中村事件の结果

中村事件は多の如何なる事件よりも一层日本人を憤慨せしめ遂に满州に关する日支悬案解决の為实力行使を可とするの激论を聞くに至れり。本事件自体の重大性は当時萬寶山事件、朝鮮に於ける排支運動、日本陸軍の满州国境們江渡河演習并びに青島における日本愛国团体の活動に对し行われたる支那人の暴行等に依り日支关係が緊張し居たる際なるを以て一层増大せられたり。

中村大尉は現役陸軍将校なりしが此の事实は強硬迅速なる軍事行動の理由として日本側により指摘せられかかる軍事行動に好都合なる国民的感情を纯化する為满州及日本国において国民大会行われたり。9月最初の二週間中日本新聞は陸軍において問題解决の為他に方法無きを以て武力に诉えるばきことに决定せりと缲り返し述べたり。

支那側事件の重大性は甚だしく誇張され居る旨并びに右は满州の軍事占领に对する口实とせられたる旨主張し支那側において事件処理上不诚意または遅延ありたりとの日本側主張を否认せり。

斯くて1931年8月末頃までに满州に关する日支关係は本章に记述せるが如き幾多の紛议及事件の结果着しく緊張し来れり。两国間に三百の悬案あり且此等事件を処理すべき平和的手段が当事国の一方に依り利用し尽くされたりとの主張については充分なる实证あり得ず。此等所谓「悬案」は根本的に调和し得ざる政策に基づく一层广汎なる問題より派生せる事態なりき。两国は各地方が日支協定の規定を侵害し一方的に解釈し又は無視せりと責むるも两者何れも他方に对し正当なる言分を有したり。

两国間の此等紛争解决の為一方又は他方に依り為されたる努力に付与えられたる说明に依れば外交交涉及平和的手段の正当なる手きに依り処理する為多少の努力が為されたることを立证せられ居るも而も右手は未だ十分用い尽くされざりき。然るに長期に亘る支那側の调查遅延は日本側をして之を隠忍し得ざる事態に立至らしめたり。特に軍部は中村事件の即時解决を主張し十分なる賠償金を要求せり。就中帝国在郷軍人会は世论喚起に与て力ありたり。

9月中支那問題に关する一般的感情は中村事件を焦点として強大となり满州に於ける幾多問題を未解决のまま放置するの政策は支那官憲をして日本を軽視せしむるに至らしめたりとの意見しばしば表示せられたり。あらゆる係争問題の解决が实力に依るを必要とする場合には軍力に诉う可しとの决议は民衆の標语となれり。右目的を以てする计画を实行せしむ可き关東軍司令官に对する確定的训令及9月上旬、東京に招致され且必要なる場合には实力に依り成る可く速やかにあらゆる悬案を解决す可しとする主張者として新聞に引用せられたる奉天駐在武官土肥原陸軍大佐等に关する记事が新聞纸上に遠慮なく掲げられたり。此等及他の团体に依り述べられたる所感に付いての新聞報道は漸増しつつありし時局の危険なる緊張を支持せり。