跨语言文化研究(第十五辑)
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2 渡边实的敬语分类与敬语史研究的关系

从上面对几种主要的敬语分类作出的批判性的介绍可以看出,每一种敬语分类都可以对日语敬语史作出一番描述,这是不争的事实。但是,哪一种敬语分类对敬语史具有最有效的解释性,则是各不相同的。前节提到的敬语分类中,传统的三分法和时枝诚记的分类既然在逻辑分析和分类原则上存在严重问题,那用它来描述日语敬语史的有效性必然值得怀疑。辻村敏树和宫地裕的敬语分类也不例外,因为缺乏层次性的分类自然不具备对语言事实描写的体系性。例如,宫地裕对敬语史的描述是否既揭示日语敬语史的本质性属性,同时又能与其他日语史的现象,比如人称词的体系、指示词与人称体系的关系等语法范畴保持相关性,都不能令人满意。

以如此的敬语分类,我们就「丁重語」「丁寧語」「美化語」三者在敬语史上的意义就会迷失日语敬语史是以「聞手尊敬」(尊敬听话者)从无到有为其历史变化为主流的大方向。

有关日语敬语史的主要先行研究

有关日语敬语史的研究中,金田一京助的「絶対敬語」「相対敬語」的观点曾普遍被人接受。所谓「絶対敬語」「相対敬語」,就是,是否使用敬语和使用哪一类敬语取决于表示敬意的对象的地位和身份等因素。所谓「絶対敬語」,就是使用敬语和使用哪一类敬语并不取决于表示敬意的对象的地位和身份等因素。日语敬语史的历史走向是从上代日语的「絶対敬語」到现代日语的「相対敬語」的演变。

这一观点有几个问题值得探讨。一是,所谓「絶対敬語」「相対敬語」二者的内涵也有失简单化。二是,这个观点尽管对上代日语和现代日语两个对比鲜明跨度逾一千三四百年之久的两个敬语体系间的差异具有很强的说服力,但是无法解释两个体系间的中间形态即保证二者之间连续性的环节。下面我们就逐一探讨这两点。就第一点而言,现代日语的敬语体系是否为「相対敬語」姑且不论,上代日语的敬语体系是否可以「絶対敬語」一言蔽之,是值得我们注意的。

但是,上代日语的敬语体系是“绝对敬语”吗?上代日语的敬语中,「給ふ」「います」等典型的与敬意的对象的身份地位相应的敬语动词是只用于女子对男人之间,没有相反的例子。请看《万叶集》第一首和歌的例子:

籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ちこの岡に菜摘ます児家告らせ名告らさねそらみつ大和の国は押しなべて我こそ居れしきなべて我こそいませ我こそば告らめ家をも名をも(万·卷一·0001)

尽管「す」一般认为敬意较轻,而且有时还用在天皇的「自敬表現」。但是,这里出现在天皇对素不相识的民间少女的和歌里。这不能不令我们对上代日语的敬语是「絶対敬語」这一观点产生怀疑。那么,日语史上,确实曾经有过一个「絶対敬語」的时代吗?

还有另外一个现象也同样说明问题之所在也在「絶対敬語」上。下面的两个例子是女性对男性用的,这里就没有用敬语形式。

卯の花の咲き散る岡ゆほととぎす鳴きてさ渡る君は聞きつや(万·10·1976)

人言を繁みと君に玉づさの使ひも遣らず忘ると思ふな(万·11·2586)

而下面的例子是对天皇也没有使用敬语的例子。

久方の天行く月を網にさし我が大君はきぬがさにせり(万·3·240)

大君は神にましませば赤駒の腹這ふ田居を都となしつ(万·19·4260)

不论和歌的作者地位有多高,如果对天皇这样尊贵的人,也可以不用敬语的话,这无疑说明,上代日语敬语并非属于「絶対敬語」[11]

以上的简单分析就可以说明,在上代日语里,敬语的使用一方面与敬意指向的对象的地位身份紧密相连,同时也有一定的灵活性。这种灵活性基本上是说话人可以根据自己与对方之间的关系事实上是否密切,或者根据双方关系的密切程度在敬语使用上作出调整。就是说,即使我们把上代日语的敬语体系用「絶対敬語」来描述,也不能排除上代日语的敬语里有「絶対敬語」的成分,二者是交织在一起的,我们只能说它们有主次之分。[12]

由此可见,所谓「絶対敬語」「相対敬語」,其实就是说话人在敬语使用上的自主性从上代日语的相对的「小」变为现代日语的相对的「大」之间的两个极点。二者之间存在一个漫长的连续的过程。为了把这个中间的过程描述清晰,我们还有必要把我们上面提到的,「絶対敬語」「相対敬語」以及渡边实的上述观点进一步具体化。

渡边实的敬语史研究论文有两篇,一篇是「日本語の変化」(渡辺実1958),一篇是「上代·中古敬語の概観」(渡辺実1973)。

渡边实(1958)里,渡边实把敬语分为「受け手尊敬」「仕手尊敬」「聞き手尊敬」和「上品敬語」四大类。这既是玉上琢弥(1955)(实为渡边实1955,参见注2)的延续,也是渡边实(1971)的前身。在这里,渡边实指出:

(中古語では)Cの敬語抑制の習慣が現在ほどに強くはないのである。あまり身分の高くもない者の侍女が、高貴の人を聞き手として、自分の主人のことを話題にするとき、必ずしも神経質に敬語抑制をしないのである。(中略)おそらくそれは敬語使用の規準である人間関係が、客観的な身分関係によって枠づけられていて、その枠を聞き手次第ではずしたり、はめたりすることは、思いもおよばぬ社会機構だったからではあるまいか。聞き手がだれであるかによって敬語規準を変えることは、ひとえに話し手自身の判断にまつが、話し手自身の自主的判断よりは客観的身分関係の束縛のほうが強い、という時代だったかと思われるのである。(渡辺実1958:245页)

中古の敬語規準は話し手の外にあった。現代はそれが話し手の内にあり、話す行為における話し手の自主性はきわめて高いものになってきたのだ、と考えてよさそうに思われる。それはおそらく徐々にであろうが、人間が社会機構に従属的であった時代から、個人の自主性の強い時代への移り変わりがあって、それがこういう敬語体系の変化に反映しているのにちがいない。(渡辺実1958:246页)

渡边实(1973)里还指出:

上代の敬語が、現代のような対象に話手が加える敬意であるよりは、対象の側に含まれるべきものであったのではないか、ということを考えさせる一つの手がかりは、聞手尊敬の敬語の未発達の事実であろう。(渡辺実1973:21頁)

聞手敬語は実際問題として、対象の側の敬語から話手の側の敬語へ変ずることによって発達し、それとともに対象のためのことばの出現位置から離れて、それからより遠い文末付近へと、その出現位置を移す傾向があるように思われる。(渡辺実1973:22頁)

敬語は元来は、対象に属するものとして発生し、次第に話手に属するものとして、対象から分離する方向で発達してきたのではあるまいか。(渡辺実1973:22頁)

要するに対象から離れた聞手尊敬は、その出現位置もが対象に関する叙述の場所から離れようとし、敬意というものを、対象に属するものではなくて、本来話手に属するものであったのだと気づかせる、導火線となるもののように思われる。裏をかえせば、対象から離れた聞手尊敬の未発達な上代は、敬意がなお多分に対象の側に属するものであった時代だったのではなかったか。(渡辺実1973:23頁)

尽管渡边实没有承认也没有否定日语史上,不论是上代还是中古,都曾经存在过一个「絶対敬語」的时代,但是,他把语义分为「対象の側の意義」和「話手の側の意義」,并试图从宏观上解释日语敬语史的历史变化的尝试的积极意义是不容质疑的。同时,我们还必须承认,上代日语的敬语体系既然不是一个「絶対敬語」的体系,那么,渡边实所说的日语史发展的大方向,即从「対象の側の意義」向「話手の側の意義」发展的大方向虽然不容否认,但是就敬语史而言,我们就要大打折扣。因为,就是上代日语,敬语也并非纯属「対象の側の意義」,这可以通过《万叶集》中大量从地位和关系上都该用而不用敬语的实例证明。可见,上代日语中敬语使用的原则是相对性的,其相对性的程度与现代日语相比,我们很难确定哪一个更相对。我们知道,现代日语敬语的使用以对听话人不失礼这个原则对说话人是否使用敬语、如何使用、使用那一类敬语所具有的约束性是很强的,这一点体现了日语是对听话人的立场,感情以及对信息的占有与否高度重视的语言。